アート

名古屋市南区散策。笠寺観音(笠覆寺)と玉照姫、笠寺一里塚の大榎、その他。

 

・・・名古屋市南区のお隣で緑区に居住してから30年以上経過し、昨年は後期高齢者の仲間いりをしました。

30代の時、笠寺にある職場で2年余り勤務しました。その間、笠寺観音笠寺一里塚の大榎が印象的でした。

カルチャーセンターで最初の作品交換会の作品も笠寺一里塚の大榎でした。

名古屋市南区散策。笠寺観音(笠覆寺)と玉照姫

笠寺観音(天林山笠覆寺)

歴史

・・・733(天平5)年創建の古刹で*尾張四観音の一つに挙がる。本尊は笠をかぶった十一面観世音菩薩です。

縁結び厄除けにご利益があるとされる笠寺観音、千三百年前の創建から人々の信仰を集めてきました。

*尾張四観音

【笠寺観音】【甚目寺観音】【荒子観音】【龍泉寺観音】

  • 「笠寺観音」(南)名古屋市南区
  • 「甚目寺観音」(北)甚目寺町
  • 「荒古観音」(西)名古屋市中川区
  • 「龍泉寺観音」(東)名古屋市守山区

四寺院とも千数百年以上の歴史があり、ご本尊は観音様です。

およそ400年ほど前に徳川家康公が尾張の国の中心として*名古屋城を築きました。

その時「名古屋城から見て鬼門の方角にあたる寺院を、名古屋城の鎮護」として尾張四観音を定めました。

*名古屋城

1610年(慶長15)に着手、1615年(元和元)に完成。九男の義直を配し、以後代々尾張徳川家の居城となった。

笠寺観音(笠覆寺)と玉照姫

(1)「名古屋の伝説」あいちの民話より

写真:笠覆寺文書のうちの「笠寺観音縁起」(1541年)、笠寺観音の成り立ちが記されている=同寺提供。

 

・・・玉照姫は、美濃国野上(現岐阜県・関ヶ原町)に流罪となった国司の娘で、

鳴海の長者・太郎成高に召し使いとして働かされていた。

名古屋市緑区鳴海町の瑞泉寺の西側に屋敷があったという。

玉照が笠を観音像にかぶせたくだりは、県指定文化財の笠覆寺文書にも登場する由緒ある話。

吉川政春住職(50)によると、玉照の美貌をそねんだ太郎成高の妻が奴隷に追いやったという俗説もあるらしい。

虐げられた女性が困難を乗り越え、やがて貴族に見初められる。

どことなく、童話「シンデレラ」に似ていなくもない。

「古今東西を問わず、人がねたみの感情を持つのは変わらない。

写真:玉照堂のいわれを説明する吉川住職。

 

ただ、心の美しい人には良縁が訪れる」と吉川住職。本堂の東側には夫婦をまつった玉照堂がある。

縁結び厄除けにご利益があるとされ、笠寺観音は千三百年前の創建から人々の信仰を集めてきた。

八年に一度の十一面観世音像の公開来春に控え、今は建物の大規模な改築工事が進んでいる。

カヤの一木造りの観世音像も修復された。

年月を経て、像の頭上にあった十一面の顔はほとんど散失し、残るは一面だけになっている。

発行:1957(昭和32)年、名古屋市文化財調査保存委員会。

(2)十一面観世音像、あいちの民話を訪ねて

・・・伊勢湾波がまだ、今の名古屋市南区の北部にまで打ち寄せていたころ。

一本の浮木が流れ着いた。浮木からは夜な夜な不思議な光がはなたれ、見た人はみな流行病にかかった。

見かねた善光というお坊さんが浮木を拾い、十一面観世音像を刻むと流行病はようやく終息した。

二百年後、朽ちた観世音像がぽつんと立っていた。

五月雨がそぼ降る日、なるみの長者・太郎成高の召使の玉照(後の玉照姫)という娘が通りかかり、

自分の笠を観世音像にかぶせ、雨に濡れながら長者の屋敷に戻った。

写真:鳴海の長者屋敷があったとされる場所、現在は瑞泉寺の墓地となっている=名古屋市緑区鳴海町相原。

 

数日後、関白・藤原基経の三男のっ中将兼平が旅の途中に屋敷に立ち寄った。

兼平は、玉照の美しさ情け深さに恋に落ち、妻として京に連れ帰った。

京の人となっても、玉照姫は雨ざらしの観世音像を忘れなかった。

時の天皇と夫の兼平に懇願し、現地に大寺を建てた。

その大寺が、笠覆寺(りゅうふくじ)。広く知られた笠寺観音と言う(2022/8/14付、中日新聞)。

笠寺観音、落慶法要

・・・天林山笠覆寺の再整備事業が完成したのを祝い、2023年4月9日、寺や整備事業の関係者約60人が落慶法要に臨んだ。

写真:再整備事業が完了を祝って開かれた落慶法要(中日新聞)。

寺は733年(天平5年)に開かれたとされる。

寺によると、2013年から10年をかけた今回の事業は、260年前に現在の本堂が建立されて以来、最大規模の再整備。

本堂の耐震化や修理、護摩堂の改築、本堂の十一面観世音菩薩立像をはじめとする仏像の修復などをした。

本堂で栄まれた法要では吉川政春住職(50)らが、世の中の平和や人々の健康を願って読経。

法要後の式典で吉川住職は「これからも人々が心を磨く場として発展していけるよう微力を尽くす」と話した。

この日、8年に一度の本尊の御開帳も始まった。修復後、初の御開帳で多くの参拝客でにぎわった。18日まで(2023/4/11付、中日新聞)。

木版画と名古屋市南区散策、笠寺一里塚の大榎

・・・笠寺一里塚の大榎高さ10幹回り3.75m。樹齢400年以上その間の風雨を耐え、今もそびえたつ雄姿。

夏季の大榎

写真:笠寺一里塚の大榎、菊川勝義氏撮影。

 

写真(2022年10月):同、菊川勝義氏撮影。

 

冬季の大榎

写真:夕焼け「笠寺一里塚の大榎」。木版画教室の生徒同士、新年の作品交換会で自身の最初の作品。

笠寺観音にお参りの後、近所を散策中に大榎に出合い、その雄大さに感動しました。

なんと立派な大榎でしょう!。それが「笠寺一里塚の大榎」でした。

その大きさ枝ぶりの勢い根の力強さが、とても印象的でしたので記事にしました。

「笠寺一里塚」の歴史

・・・江戸時代の1604年、徳川家康の命により、東海道に*一里塚が設置されました。

以後四百年もの間、旧東海道を通る人を見守ってきた南区の「笠寺一里塚の大榎」。

*一里塚

江戸幕府は1604年(慶長9)に江戸日本橋を起点として東海、東山、北陸の3道へ一里塚を築いた。

その上にを植え、旅行者に便宜を与えた。幕府はのち3街道以外にもこの制度を広めた。

さらに各地の主要街道にも構築させた。当時の街道図にもその所在が明記されている場合が多い。

諸藩もこれにならい脇街道に築いたこともあった。

その後改修に熱意がなく次第に廃壊し、天明年間(1781~89)頃には原形を失うものも多かったという。

旅人には人馬賃銭や駕籠代を交渉するために役立ったが、現在では道路の拡幅などによりほとんど残っていない。

「笠寺一里塚の大榎」のメンテナンス

・・・一里塚が設置されてから400年、その間伊勢湾台風(1959年9月26日)にも耐えてきた大榎も傷んできました。

傷んだ部分を治療して後世に残そう!市民の志をくみ、名古屋市が寄付金を募るプロジェクトを始めました。

結果、二百六十七万二千八百四十六円が寄せられ、市の目標、二百万を超える善意が集まり、計画はスタートしました(2020/12/末)。

版画作品「笠寺一里塚の大榎」を再作成

カルチャーセンターで木版画を習い始めてから20年後、再び、「笠寺一里塚の大榎」にチャレンジしました。

400年も前から冬の寒空の中に立つ孤高の大榎を表現したく、「冬木立」として再作成しました。

 

写真:作品名「冬木立」。

 

*ご参考画像でわかる木版画の作品作り。工程・裏技・ヒント。植物編(花・木・野菜)。

名古屋市南区:散策。その他

笠寺観音「六の市」

・・・笠寺観音の祈祷日に合わせて、六のつく日に境内で開催される市です。

戦後すぐに寺近くの通りで始まり、その後現在の場所に移りました。

多いときは100店舗近くが軒を連ね、賑わいを見せます。

新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の下、名古屋市内では青空市の中止が相次ぎました。

しかし、日用品を主に扱う「六の市」は常連の地元客が多いこともあり、消毒用アルコールの設備やマスクの着用、

店舗の間隔を開けるなどして営業を続けてきました。

縁結びの寺として知られる笠寺観音、コロナに負けない交流の場が続いていました。(2020/9/7日付、中日新聞)。

南区のキラリ 動画に

写真:Kilariさんが出演し、南区の魅力を紹介する動画の一場面(2022/11/4日、中日新聞)。

 

・・・南区は、区内の魅力を発信する動画を制作し、区の公式ユーチューブチャンネルで公開しました。

若者の人気のモデルKirariさん(23)=県出身=が登場し、

「歴史」「食事」「エンターテインメント」の三つのテーマでおすすめスポットを紹介している。

童画はそれぞれ30秒程度で、三つのテーマをまとめた「オムニバス」は1分。

Kirariさんがスポットを実際に訪れ、「歴史」では笠寺観音や富部神社、

「エンターテインメント」では日本ガイシホールや商店街などを紹介。

「食事」ではレトロな喫茶店やスイーツなどをPRしている。

動画の公開に合わせ、インスタグラムでは来年1月5日までキャンペーンを実施。

区の公式アカウントをフォローし、「#いいねみなみく」のタグを付けて区内のスポットなどの写真を投稿すると、

抽選で40人にオリジナルポーチをプレゼントする。

区地域力発信室の担当者は「動画をきっかけに、区内外の人に実際に訪れてもらい、

写真を撮って発信してほしい」と話した。(2022/11/4日、中日新聞)。

ご参考「#いいねみなみく」-YouTube

名古屋市南区魅力発見発信プロジェクト実施中。

村上社の「大楠」と冨部神社の「蛇毒鬼神」

 

写真:(左)富部神社、(右)村上社。

所在:村上社(楠木町)、富部神社(桜=呼続四)

写真(2021年12月27日、雪):村上社のクスノキ(菊川勝義氏撮影)。

 

写真(同日):同所、(菊川勝義氏撮影)。

 

村上社

昭和62年(1987年)名古屋市の天然記念物に指定されました。

この樹は古鳴海と桜の地を結ぶ、船人の目印になっていたと伝えられています。

また「万葉集」高市連黒人(たけちのくろひと)の*歌の碑が建てられています。*<ご参考>-2

地下鉄桜通線の鶴里駅に程近い住宅地。高さ約20メートル、幹回り約11メートルにもなるクスノキの巨木がそびえ立つ。

名古屋市南区楠木町の村上社樹齢は千年を超え、町の名前は文字通り、この木から付けられました。

近くに住む久野昇さん(79才)はこの地で生まれ、クスノキを見て育った。

少年時代は毎日のように友人と木登りをして遊んだ。「この地域を見守り続けてくれる存在」。

今はかってのような子供の姿はなくなり、少しの寂しさも感じています。

富部神社

一方、クスノキが移されたとされる富部神社(同区呼続四)。

金原佳子宮司によると、大蛇の伝説は神社に伝わっていない。

ただ、共通点はある。明治までは「蛇毒神社」と呼ばれご神木はクスノキです。

1606年、清洲城主であった*松平忠吉創建した。*<ご参考>-1。

神社で祭る「蛇毒鬼神」は厄神とされ、たたり祈願することで、疫病退散の利益があるとして信仰を集めて来た。

病気だった忠吉も祈りをささげ、すぐに回復したと伝わる。

厄神の「蛇毒鬼神」と悪さをする大蛇。神社の由緒から伝説が生まれたのでしょうか」と金原宮司。

新型コロナウイルス感染防止を祈る参拝者も少なくない。

「四百年前もきっと同じように、疫病を恐れる人々が祈りを捧げていたのでしょうね」と思いをはせた(2022/11/6日、中日新聞)。

*<ご参考>-1

松平忠吉(1580~1607年)家康の四男で母は、薩摩の局)。

1584年:小牧・長久手の戦後に人質として大阪に送られました。

1590年:武蔵国忍城主10万石、翌年大阪より戻りました。

1600年:石田三成挙兵に対して、東海道を進む東軍大将とされました。

関ヶ原の戦には舅井伊直政と先駆けして名をあげ、負傷したという。戦後尾張国清洲城の城主となりました。

*<ご参考>-2…愛知県名は「あゆち」が由来

高市連黒人(たけちのくろひと):大宝元年(701)の太上天皇吉野宮行幸、同二年の三河国行幸に従事して歌を詠む。

万葉集に18首収められた策はすべて短歌です。下級の地方官人とみる説が有力です。

*二年壬寅(みずのえとら)、太上(上皇)天皇の三河の国の幸(いでま)す時の歌。

「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」

<通訳>

桜田の方へ、鶴が鳴いて渡ってゆく。年魚市潟は潮が引いたのであるらしい。鶴が干潟の上を鳴きながら渡ってゆく。

<語訳>
  • 桜田:名古屋市南区に桜田の地名が残る。年魚市場の東。
  • 鶴鳴き渡る:干潟になった年魚市場を飛び立ち、鳴きながら干潟の上を渡ってゆく。
  • 年魚市場:名古屋市熱田区・南区あった干潟。熱田神宮が近い。なお、この「あゆち」県名「愛知」の由来という。

 

 

あいちの民話を訪ねて「桜の大蛇」

写真:富部神社のご神木クスノキと同宮司金原佳子さん(2022/11/6日、中日新聞)。

村上社には高さが60尺(約18メートル)にもなる大きなクスノキがある。

一匹の大きな蛇が住み着いて、日中も這いずり回り、鶏も卵も一飲み。

村人たちは困り果てていた。そこで村人たちは鳴海(現名古屋市緑区)の蛤地蔵に拝みに行くことにした。

「お地蔵さんの力でお願いします」。来る日も来る日も皆で必死に拝んだ。

一週間がたった朝、お地蔵さんは「そりゃあ気の毒だ」と突然話し始めた。

村人は社に案内し、クスノキから蛇が出てくるのを待った。

昼頃、姿を現した蛇に、お地蔵さんは手に持っていた蛤を投げつけ、見事に目に直撃。

大暴れする蛇に今度は村人が次々に矢を射た。

死んでしまった蛇は160尺(48メートル)もあったそうだ。

祟りを恐れた村人たちは蛇を祀った。その後、クスノキと一緒に富部神社に移した。(2022/11/6日、中日新聞あいちの民話)。

 

星宮社(ほしみやしゃ)

写真:拝殿を背に星宮社の将来について語り合う(左から)福井さん、石川さん、柘植さん。

 

あいちの民話を訪ねて

住宅地の一角に、森のように木々が生い茂る。名古屋市南区本星崎町の星宮社。

星をかたどった拝殿の瓦、星と剣を組み合わせたという紋が刻まれた灯篭など、境内には星にまつわる装飾が見られる。

写真:(左)星と剣を組み合わせたという紋が刻まれた灯篭、(右)星をかたどった瓦。

 

星宮社の創建は舒明天皇(在位629~641年)のころとされる。

「星が落ちた」という話がおさめられた「続・名古屋の伝説」(名古屋市発行)は、江戸時代の地誌の記述などを基に、

著者の芥子川律治さんが再編成したという。とはいえ、地元では良く知られていない話のようだ。

氏子総代代表の石川広三さん(80)と、子どものころから星宮社に親しむ同町の福井勝昭さん(78)は、

「星が落ちたという縁起は来たことがない」と口をそろえ、首をひねった。

同町で米穀店を営み、地域の歴史に詳しい柘植幸治さん(73)は、星宮社と地域のかかわりについて教えてくれた。

星宮社では260年井所前からだしを引くなどする本地祭が開かれてきた。

周辺は物流の拠点であり、製塩も盛んで栄えた。現代になってトラックを改造した簡易的な山車を使っていた時期もあったが、

柘植さんらが中心になって30年ほど前に本格的な山車を復活させた。

今も星宮社を参拝に訪れる地域民は多い。毎日のように掃除をする穂ともいるという。

石川さんは「星宮社をこれからもずっと守っていかないと」と話している。(2023/4/30日、中日新聞)。

星にまつわる伝説残る

遠い昔のある夏の夜、人々が家の外へ出て夕涼みをしていた。雲の無い空には星が輝いていた。

赤く燃えているような星、白く大きくまたたく星、それはそれは美しい星空だった。

一人が、西の空にひときわ輝く赤い星が流れているのを見つけた。その星はいつまでも消えない。

それどころか、こちらへ向かってくる様子で、真っ赤に燃える火の塊が大きくなって尾を引いて近づいてきた。

人々は逃げ帰り、家の中で息を殺していると、地響きがした。夜が明け、あたりを見回ると、

村外れの畑の隅に大穴が開いていた。穴を掘り進むと、先のとがった黒い石の塊を見つけた。

人々は力を合わせて小さなお社を建て「星の宮」ち呼ぶことにした。

それだけでなく、星にちなんで、この地域は星崎と言われるようになった。(あいちの民話を訪ねて、中日新聞)。

 

熱田神宮(南区在住者の投稿)

写真:熱田神宮正面拝殿。

 

名古屋城の近くで生まれ、現在南区在住である櫛田諄造氏の「熱田の森に学ぶ」と題する手記を紹介します。

早朝散歩と熱田愛に溢れる「熱田神宮に関連する手記」がコンパクトにまとめてあり、ご参考になれば幸いです。

「熱田の森に学ぶ」(櫛田諄造氏手記)

熱田神宮は、名古屋市の南部、熱田台地に広がる緑豊かな森に鎮座し、市民からは「熱田さん」として、敬愛されている。

我が家は、「熱田さん」から南方へ3キロ程の道程で、

一昨年の春から、コロナ禍の最中に、健康寿命延長目的で、「直立二足歩行」の、早朝散歩を始め身体になじんで来た。

<三種の神器>

「熱田さん」は、三種の神器で名高い「草薙の剣」が祀られている。

神苑の広さは、ナゴヤドーム2個分ほどの森で、樹齢千年を超えるといわれる巨木が数本樹立し、

昔不老長寿の仙人が住む理想郷と古事にも記され幻想的な雰囲気を醸し出している。

その森の北端に、「熱田さん」は、毅然と鎮座している。

四季折々、朝日の輝き・樹々の表情・鳥の囀り、

空の景色は、早朝散歩の私を包み、幸福を感じさせてくれる。

熱田さんの建築様式は、唯一神明造の伝統的木造社寺建築である。

現在の神殿は20年ごとに行われる。

伊勢神宮の遷宮で発生した廃材が有効に再利用され、平成21年に改築が終わっている。

また数々の、遺跡も復元整備された。その効果で「熱田さん」は、市民との親しみが更に深まった気がする。

<信長塀>

境内の遺跡をたどると、神殿の外周に織田信長が奉納した「信長塀」の一部が、当時の状態で残っている。

それは永禄三年、桶狭間の戦い出陣の際に願文を奉し、そのおかげで大勝し、天下統一の一歩となった御礼に奉納したといわれている。

「信長塀」は、まだセメントの無い時代、土と石灰を油で練り硬め、

力骨に瓦を挟んで積み重ねたもので、瓦屋根で風雨による土の崩落を防いでいる。

また構造的には下部に膨らみを施し、「信長塀」全体の安定を図っている。

また美観的には、土と瓦の天然素材の持ち味を存分に発揮した、

素朴でぬくもりを感じる雰囲気を醸し出し、

私はこの「信長塀」を、先人の知恵がたくさん籠もった、貴重な文化遺産だと思っている。

<草薙広場>

昨年秋、境内の中央部に広がる、旧い池の周辺が、「草薙広場」と名付け整備された。

<二十五丁橋>

池の周りの水路には、弓上に沿った橋げたに、板石を25枚並べた「二十五丁橋」。

<佐久間燈籠>

また熱田のお化け燈籠と呼ばれる、高さ八メートルほどの日本では3本の指に入る、「佐久間燈籠」が復元された。

これらの遺跡はすべて天然石の花崗岩が使われ、この時代の緻密な加工技術・重量物構築技術には、目をみはるばかりだ。

<清水社(しみずしゃ)>

また神殿の裏、高低差5メートルほどの崖下に下に、広さ畳10枚ほどの玉石に囲まれた水溜りに、静かに水が湧き出し祭られている「清水社」がある。

「清水社」は美肌と目にご利益があるとして女性に一番の人気のあるスポットです。

昔この水で、楊貴妃が顔を洗ったと云う寓話が残っていて、

この水で顔を洗うと、綺麗になるという噂もあって、女性の参拝者が絶えない。

私は過日、高齢者には無理だといわれる、この崖下に祭られた「湧き水」参拝を企て、「老骨に鞭打ち」決行することにした。

当日は特に足元に注意して、一般参道から、細い参道に入り、慎重を重ねながら、崖下の「湧き水」が出る平場に向かった。

しばらく降りると、大きな天然石で築き固めた、七段ほどの石階段が現れた。

その石階段の表面は、長い間多くの参拝者で踏み慣らされ、つるつるした滑らかな状態だ。

私はその階段を、恐る恐る、バランスを保ちながら、なりふり構わず慎重に降り始めた。

すると、突然、見知らぬ女性の、優しい救いの手が差し伸べられた。

私は迷わずその手にすがりつき、無事目的の平場に着地し、念願の「湧き水」参拝が達成出来た。

私は今、この見知らぬ女性の、「人の難儀を見ても見ぬふりをすること無く」

手を差し伸べた「温もりのある、素直な優しさ」を、呼吸が止まるまで忘れない。(「熱田の森に学ぶ」、櫛田諄造氏手記)。

日本ガイシアリーナ競泳プール

・・・日本ガイシスポーツプラザの一部を日本ガイシアリーナと呼んでいます。

同施設(東又兵衛町)は競泳プールだけでなく、アイスリング・弓道場・宿泊施設など、

総合施設として幅広いスポーツ活動の場を備え提供しています。

レインボーカップマスターズスイミング

2021年敬老の日、同競泳プールで「第30回レインボーカップマスターズスイミング」が開催されました。

そこで、櫛田諄造氏(南区道徳町在住)が、50メートル平泳ぎを完泳し、1992年の初開催から、30回連続出場を達成しました。

翌年、2022年9月19日敬老の日に「レインボーカップマスターズスイミングIN・泳者最高年齢表彰を受け、

翌日の中日新聞市民欄に大きく記事に取り上げられました。

写真:2022/9/20付、中日新聞市民欄。

 

同氏は「百歳まで泳ぎ続ける」を目標とし、さらなる意欲に燃えています。

100歳まで泳ぎ続ける

スタートの合図で、勢いよく壁を蹴り、泳ぎだした。ゆったりとしたフォームで前へ前へと進んでいく。

全盛期に比べれば、記録は随分と落ちたけれど、ゴール後は満面の笑みを浮かべた。

「力を出し切れてよかった。最後まで泳げて大満足」。30回連続出場の表彰を受けた中では、市内最高齢でした。(2022/9/20、中日新聞記事)。

水泳との出会いと継続

名古屋城の近くで生まれ、小中高は水泳部に所属したが太平洋戦争が激化すると、

旧制中学では軍事教練に励む日々であった。

空襲で自宅は全焼し、水泳どころではなかった。終戦後、高校に水泳部が復活。

迷わず水泳部に所属しスパルタ練習に耐え、平泳ぎ一筋で厳しい練習に励んだ。

その結果、日本競泳選手権愛知大会で決勝に進出することが出来ました。

卒業後は、当時の「電気通信省・東海電気通信建築部」に就職。国土復興のため局舎建設に精励し、

幾多の困難も水泳で培った精神と根性で乗り越えることが出来ました。

平和な時代になり、50才を前に健康のためにと再び水泳に目を向けました。

多いときは年に10回以上も大会に出場し、全国や海外を飛び回りました。

昭和63年56歳で出場した「JSCAマスターズスイミング」200メートル平泳ぎ55~60歳で当時の日本記録を樹立しました。

その時に体得した「心技体」のリズミカルな泳ぎは、その後持続することなく水泳の奥深さを痛感させられました。

その後も「継続は力なり」の精神で、泳ぎ続けてきた。今も週2回、近くのプールに通い、1時間ほど練習を重ねる。

そのかいあってか、これまでに大きな病気を患うことなく、健康的な毎日を送る。

「やりだしたら最後までやる性格。楽しくなけりゃ、ここまで続けてこれなかったね」と笑みをこぼす。

長年の水泳人生で手に入れたのは健康だけではない。思い起こすのは、今年5月に市内であったマスターズ大会。

先にゴールした仲間たちが櫛田さんの到着を待ち、プールから上がるために手を差し伸べてくれた。

「あの時は嬉しかったねえ。水泳人生で出会った仲間は本当に大切だ」。

最近は体が衰え、思うように泳げないもどかしさもある。それでも、水泳だけはやめないつもり。

「ずっと継続して来たから今がある。これからも楽しみながら、絶対に100才まで泳ぎ続ける」。(2022/9/20付、中日新聞)。

写真:swimming練習風景。

 

南区文化活動

木版画

写真:魚を題材とした木版画。

 

同氏は木版画を通して、南区の文化活動に貢献していますので紹介します。

木版画に魅せられたきっかけは、我流の年賀状造りから始まりました。

試行錯誤の年賀状造り、参考書など読みあさり懸命に努力していました。

30年前「NHK学園・木版画講座」の開設を知り、コースを受講。

そこで、誰もが突き当たる問題でありますが、作品のテーマを決めることに悩みます。

学生時代、水泳部での合言葉「魚になるまで泳げ」を思い出し、魚の習性を深く観察し、生涯テーマを「魚」としました。

平成5年から、生涯学習美術展に挑戦。その努力が実り平成15年には「審査員特別賞」を受賞。

平成28年、最後の生涯学習美術展で「NHK学園賞」最後の評価は、

「魚をテーマに長い間一貫してシリーズ作品を作り続ける姿に感動を覚えます」でした。

 

受賞歴

この間、名古屋市美術展では、名古屋市市長賞、区政協力委員協議会議長賞。

南区区民美術展では南区長賞など数々の出品作品で受賞している。

名古屋市、南区高年大学OB展には毎回作品を出展している。

これら経験がバネになって、地域の版画仲間との交流も深まり、

お互いに切磋琢磨することが木版画制作を続ける夢になっています。

南区地域活動

前述の櫛田氏は、地域活動にも積極的に貢献されておりましたので紹介します。

児童の水泳指導員

同氏は、名古屋市教育委員会より、小学校の高学年の水泳指導を要請され、平成10年~21年まで11年間水泳指導員として貢献

<水泳指導員>

同氏が老人クラブ連合会の理事の時、同クラブ宛の寄稿文を紹介します。

指導 体験

戦後、荒れ果てた国土の復興が進み、高度成長期に入った。

その頃、職種の資格取得ブームが沸き起こりスポーツ界にも波及した。

丁度その時期、水泳仲間から指導者取得の誘いを受け、将来役立つだろうと、躊躇なく受験申請をした。

試験当日は同じ目的の懐かしい河童仲間との再会で昔話に花が咲き、その勢いで学科・実技を共にクリアし指導者資格を取得できた。

その後は毎年、資格更新して、年会費を日本水泳連盟に納入することで、日本の水泳界発展には少なからず貢献できたと思っている。

その頃我が国は、高度経済成長が進み安定期に入ったので高齢者にも、

マスターズ水泳と称して「健康・友情・相互理解」を柱に年齢不問の男女が水泳競技を楽しむ平和な時代になり、

その傍ら思いもよらず、平成10年に名古屋市教育委員会から、地元小学校水泳指導の委託要請を受け、気持ちよく引き受けた。

指導開設の日は正面玄関で目を輝かせた子供たちの出迎えを受け、

童心に帰ってプール迄一緒に手を取り合って歩いた時の感動は今も忘れない。

練習内容は、先ずは金槌の子供には、水に対する恐怖心の除去から始めるなど、泳力に応じてグループに分け練習を重ねた。

その成果が実り、夏休みの南区水泳大会では、全員が全力を出し切って完泳することが出来た。

この時、正に指導員冥利に尽きるとは、この事かと実感し、感動で密かに涙した。

或る日、練習が終わって脱衣室に入ると子供たちが輪になってヒソヒソ話し合う場に遭遇した。

話の中身は、ザラ板の下にトカゲが居る話で、即、ザラ板を揚げトカゲを鷲掴んで外に逃がしてやった。

これが切っ掛けになって、子供たちとの会話が始まり、穏やかな雰囲気に成った。

そこで戦時中の食糧難での自給自足で生活し、たんぱく質確保で爬虫類まで食べた話、国土空襲での悲惨な体験談、

スパルタ式水泳練習に耐えて頑張った話などを話すと、全員が真剣なまなざしで懸命に聞いてくれた。

今、この体験を書きながら、子供たちの未来は「疫病も、国境も、争も」何も無い楽園大国になることが夢になった。(櫛田氏寄稿文)。

 

地域町内会・老人会活動

町内会長を平成14年~平成23年まで10年間。老人会会長を平成24年~令和3年まで10年間。

その間に南区老人クラブ連合会理事を平成29年~令和3年まで6年間努めました。

地域活動に貢献による感謝状

前述の地域貢献の活動・功労に対し、名古屋市長より、老人クラブ発展功績により感謝状、

写真:みなみシニア元気大賞。

 

写真(表彰を受ける櫛田氏):みなみシニア元気大賞、受賞風景。

 

南区長より、みなみシニア元気大賞、区政協力委員協議会議長賞、

南区道徳学区連絡協議会会長より高齢者福祉の増進に貢献により感謝状を受けました。

<ご参考>

櫛田諄造氏の「地域活動」・「版画受賞歴」など詳しくは、ネット検索「櫛田諄造」をお勧めします。

 

名古屋市南区:散策 のまとめ

・・・冒頭述べましたが、笠寺に存在した職場で2年余り勤務した中、笠寺観音一里塚の大榎との出合いは特別印象に残っています。

笠寺観音創建のきっかけとなった逸話「玉照姫」、そして、400年の歳月を乗り越えてきた一里塚の大榎。

さらに、村上社富部神社とが関係する、大蛇とご神木クスノキにまつわる民話。

また、南区に至近距離の熱田神宮(熱田区)は市民生活に密着しております。

よって、番外でありますが「熱田の森に学ぶ」(南区在住、櫛田諄造氏の手記)を記載しました。

加えて、同氏の水泳指導・木版画・老人会など南区における地域貢献活動を知り、合わせて掲載しました。

これらの歴史的存在・地域文化は、いずれもモラルの高い民衆の意思によって守られている貴重な文化です。

そして、自然に畏敬の念を抱きながら、人にやさしい日本人の特性を強く感じました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。