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名古屋市博物館、開館の歴史と特徴・常設展・基本計画・その他

 

・・・特別展 日中国交正常化50周年記念、「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」を鑑賞後、

その足で、久しぶりに同博物館の常設展を鑑賞することにしました。

しかし、膨大な数の歴史的展示資料に向き合い圧倒されてしまいました。

とてもキャプションと展示物を見比べながら、一挙に記事の掲載は無理と判断しました。

そこで、歴史の勉強をするつもりで少しづつ記事を充実していきたいと思います。

開館の歴史と特徴

・・・名古屋市博物館は、名古屋市の人口200万人突破記念事業の一環として、昭和52年(1977)10月1日に開館した歴史系博物館です。

名古屋特徴づける歴史資料を中心に、収集資料は約2万4千件、27万点に達しています。

常設展

・・・狩猟・採集の時代から現代にいたるまで各年代に沿って特徴のある出来事を項目別にピックアップしてあります。

歴史に詳しい方はこれらの項目をご覧いただくだけで各年代ごとの出来事が思い浮かぶことと思います。

先ずは時代別の項目から、そして出来事へと記事を充実したいと思います。

特に興味ある時代の項目をご覧いただいてもよろしいかと思います。

1、狩猟・採集の時代

・・・食料をつくりだす方法を知らなかった時代、人々は動物や魚を捕らえ、木の実や貝などを集める生活をしていました。

日本列島ではこのような狩猟・採集を基本とする生活が、稲作技術が伝わるまで続きました。

この時期は、土器の使用を境にして旧石器時代と縄文時代との二つの時代に区分されています。

1-1.  旧石器と旧石器時代

日本列島が大陸と陸続きだった氷河時代に今では絶滅したナウマンゾウ、

オオツノジカなどの大型動物とともに人類が日本列島に渡ってきました。

当時の人々は、石を打ち欠いて作った打製石器を使って、大型動物を集団で狩猟した。

県内では、ナイフ形石器・尖頭器(せんとうき)などの旧石器を出土する遺跡は、

尾張東部の丘陵地帯・矢作川流域・豊川流域に多く分布しています。

尖頭器(せんとうき)

槍の柄の先に付けた狩猟用の石器です。とがった先端で突き刺したり、

大きなものは柄を付けてナイフのように切ったりします。

1-2.  縄文時代のくらし

氷河時代が終わって温暖な気候となり、クルミ・ドングリなど実のなる広葉樹が残り、

シカ・イノシシなどの動物が増えました。

こうした自然を背景に土器と弓矢などを特徴とする縄文時代が始まりました。

土器によって煮炊きができるようになり、食用となる動植物の種類が多くなりました。

漁撈(ぎょろう)が普及するのもこの時代からです。また貝類がさかんに採集され、貝塚が形成されました。

1-3.  縄文人のいのり

写真:縄文人人骨、隣接の直立した骨格資料は158cm。

 

縄文時代には土偶・石棒など実用品とは考えられない遺物があります。

縄文時代

旧石器時代の後に当たる時代。旧石器時代との違いは、

土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化のとと竪穴建物の普及、

環状集落などの定住集落や貝塚の形成、植物栽培の始まりなどが挙げられます。

出土した状況・かたちなどから呪術・信仰など縄文人の精神的な部分にかかわるものと思われます。

こうした遺物は中期以降数が増え、後・晩期になると急激に増加します。

日々の生活が自然に大きく左右されることの多かった縄文時代には、

呪術・信仰によって集団をまとめていく必要があったのでしょう。

2、稲作のはじまった頃

写真:弥生時代、弥生人のモデルハウス。

 

2-1.  弥生時代のくらし

・・・弥生時代(紀元前300~250年)は、日本列島で本格的な水田耕作が開始され、農耕文化が形成された時代です。

弥生時代の文化は、水田耕作や、少し遅れてもたらされた金属器のように、

中国大陸・朝鮮半島からもたらされたものと、

狩猟具など縄文時代から継続するもの、さらには銅鐸のような弥生文化独自のものによって構成されています。

2-2.  弥生時代の精神生活

弥生時代には銅鐸や銅剣などの青銅器、人物や鳥などをかたどった土製品や木製品、

占いのための卜骨(ぼっこつ)など実用に適さない多くの道具があります。

これらは豊作を祈るまつりなど、ムラの儀式の時に使われたものと思われます。

また、ムラの外に墓域を設けて死者を葬るようになりました。

ムラの中に墓を作っていた縄文時代とは死者に対する考えかたの変化をうかがうことができます。

3、古墳とその時代

・・・弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代(250~538年)です。

3-1.  古墳時代のくらし

3-2.  古墳と副葬品

写真:国指定、志多見大塚古墳の出土品。

 

古墳には死者とともに装身具・宝器や武具、葬送の儀式や祭祀の際に用いられた道具などが収められました。

写真:鍬形石(くわがたいし)。

 

写真:石釧(いしくしろ)

 

前期には、古墳は政治的な権力者の墓として築かれ、副葬品も鏡や鍬形石(くわがたいし)石釧(いしくしろ)など宝器的なものが多い。

鍬形石(くわがたいし)

弥生時代(紀元前300~250年)から古墳時代の初期にかけて流行しました

「巻貝(コボウラ)製腕輪」をその先祖とする腕輪形の石製品です。

 

石釧(いしくしろ)

古墳時代前期から中期までみられる石製の腕輪です。

形はイモガイという巻貝で作られた腕輪がモデルになったと考えられています。

後期になると古墳を造る範囲はムラの有力者やその家族まで広がります。

古墳はその数を増すとともに、副葬品は馬具や*須恵器(すえき)・実用的な鉄器が一般的となりました。

 

写真、須恵器:(左前)蓋杯、(左奥)甑(こしき=穀物などを蒸すための器)、(中央)横瓶。

 

須恵器(すえき)

古墳時代(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わった青灰色をした堅い土器。

日本では古墳時代初めころまで、野焼きのようなやり方で縄文土器や弥生土器、

土師器(はじき)といった土器を作っていました。

これらは、手軽に作ることが出来る一方、焼が甘いため水が染み込みやすく、

時間が経つと脆くなるという欠点がありました。

土師器(はじき)

古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器。

須恵器と同じ時期に並行して作られましたが、実用品として見た場合、

一般的に土師器の方がより日常的で格下の存在でした。

4、古代の尾張

古代

日本史では、奈良時代(710~794年)・平安時代(794~1185年)をさしますが、

大和政権時代(4世紀から7世紀頃まで)を含むこともあります。

・・・7世紀後半、日本に律令制度が導入され、地方行政単位としての「尾張国」が誕生しました。

政治の中心である国府は尾張平野の中央部(現稲沢市)に設けられ、

鎮護国家の考えにより、国府の近くには国分寺・国分尼寺が建てられました。

平安時代になると、律令体制にゆるみが生じ、国司の暴政により地方政治が混乱しました。

4-1.  律令の時代

大化の改新(645年)後、中国の律令制度にならい、中央集権的な国家づくりが始められました。

大化の改新

皇極天皇4年6月12日の乙巳の変に始まる一連の国政改革。

広義には大宝元年(701)の大宝律令完成までの改革を含みます。

改革そのものは、年若い両皇子の協力によって推進されました。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされます。

 

次第に全国の土地と人々を直接支配する仕組みが整えられていきました。

地方は一般に国・群・里に分けられ、尾張国には八つの群が設けられました。

公地公民の制により、農民には口分田が分け与えられ、租・庸・調などの税のほか、数々の労役が課せられました。

租(そ)

口分田の収穫の3%程度の稲(米)を収める。これは主に諸国で保存されていました。

それまでは神に捧げ、飢饉や災害など何かあった時に備蓄するという風習がありました。

この風習を租という形にすり替えたとされています。

庸(よう)

労役もしくは代用として米や布を収める税。都で労役する事が難しい、

例えば都までの距離が遠い地方の人々の場合は、米(庸米)や布(庸布)で納めることが可能でした。

 

調(ちょう)

布や地方特産品の事を指します。主に布を収めることが基本となっていました。

特産品は代用として納めることもありました。特産品は34品目の中から1品目、もしくは貨幣の納税が認められていました。

本来は朝廷に貢物として納めていた制度があったのでこれを調に置き換えたされています。

 

4-2.  解文と人々の暮らし

地方の政治は中央から派遣されてきた国司が、郡司に任ぜられた地方豪族を通じて行いました。

国司の任務は主として農民の支配・租税の徴収でありましたが、

平安時代に入ると、不正な税を課し、私利をむさぼる国司が多くなりました。

尾張では10世紀から11世紀にかけて、郡司・百姓らと国司の抗争が激しくなり、

国司の暴政を中央政府に訴える事件が発生していました。

解文(げぶみ)

下位(身分・官庁)から上位(身分・官庁)に奉る文書。

平安時代以降中世初期にかけて提出する「公式令に定められた「解」形式の文書。

 

4-3.古代の仏教文化

地方豪族が勢力をのばすとともに、全国各地に仏教寺院の建立が盛んになり、

尾張地方にも多くの寺院が建てられました

その中には廃寺となってしまったものも少なくないが、出土する瓦などによってその姿の一端がうかがえます。

これらの地方寺院では、大規模な伽藍の整備や写経、仏像の制作などが行われ、

都の仏教文化を地方に伝えるうえで大きな力となりました。

伽藍(がらん)

僧侶たちが住んで仏道を修行する、清浄閑静な場所。後に寺院の建築物の総称をいいます。

5、窯業

写真:瀬戸窯を中心とした展示品。

 

・・・5世紀後半に朝鮮半島から、丘陵の斜面を利用して窯で堅い焼き物を焼くという技術を持った陶工が近畿地方に渡来しました。

須恵器と呼ばれるこの焼き物の生産技術は、ほどなく名古屋市東部の丘陵地へも伝わりました。

良質の陶土に恵まれた尾張地方は、以後様々な技術改良を経ながら、焼き物の一大生産地として発展していきました。

5-1.古代の窯業

古墳時代に始まった須恵器の生産は、奈良・平安時代へと引き継がれていきました。

また、器物に上薬(釉薬)をかける技法も7世紀に伝わり、

古代における陶器生産は、強大な国家権力の支配下に置かれました。

尾張では灰薬をかけた灰釉陶器が、猿投山西南部で8世紀後半に初めて生産され、

11世紀後半まで尾張の特産品として都や東国の官衛などに供給されました。

5-2.中世の窯業

平安時代末期、良質な輸入陶器の増加などにより猿投窯は衰え、焼き物の生産地は周辺に拡散ました。

生産の中心になったのは、壺・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)を主に焼く常滑窯・渥美窯や、

椀(わん)・皿を主とする名古屋市東部の窯で、製品は、いずれも上薬のかけられない陶器でした。

鎌倉時代になると、新たに中国製の陶磁器をまねた高級な施釉陶器を焼く瀬戸・美濃窯も生産を開始しました。

 

6、中世の尾張

・・・尾張の守護は、鎌倉・南北朝時代には短期間に交代しました。

室町時代なると斯波氏に固定し、そのもとで守護代となった織田氏が尾張を支配しました。

尾張には約100か所にのぼる荘園が成立したが、守護や地頭は次第に荘園領主から支配権を奪っていきました。

6-1.  荘園の世界

8世紀中頃、律令制度の土地公有の原則がくずれると、中央の貴族や有力な寺社の私有地である荘園が各地に成立しました。

尾張でも皇族や摂関家の荘園、東大寺や醍醐寺の荘園ができ、

国司の支配する公の土地(国衙領:こくがりょう)とともに、中世の基本的な土地単位となりました。

また、南北朝時代になると、地方の寺社にも近隣の武士などか土地が寄進され、寺社の所領が形成されました。

律令制度

持統上皇・文武天皇の命令で刑部親王・藤原不比等以下、学者・渡来人が、701年完成。

飛鳥浄御原靈に代えて施行。律は6巻・約500条、令は11巻で約1000条。

:刑法の規定・罰則。:行政をはじめとした刑法以外の法律。

中国の隋と唐にならい、7世紀後半から8世紀に制定されましたが、

中国のものとは違いが多くみられます(引用)。

 

6-2.  仏教と民間信仰

平安末期から鎌倉時代にかけて新しい仏教宗派が次々と生まれました。

浄土教系では浄土宗、浄土真宗、時宗、禅宗系では臨済宗、曹洞宗、その他に法華宗があります。

これらは、いずれも民衆の救済を唱える点で共通し、布教にもわかりやすい方法がとられました。

また地蔵菩薩に対する信仰が民間にひろまり、鉄菩薩、石仏などの形が作られました。

7、尾張の統一と信長・秀吉

・・・織田信長は尾張・美濃地方を勢力下におさめると、京に上がり全国統一を推し進め、

信長の死後、豊臣秀吉がこれを引き継ぎました。

この時代には、武士と農民・商工業者との身分の区別がはっきりしはじめ、江戸時代の身分制度の基礎となりました。

また、全国の土地に検地が実施され、石高を基準にして軍役や年貢が課せられるようになりました。

7-1.  統一への動き

織田氏は守護代として尾張を支配していたが、応仁の乱が始まると、東軍方と西軍方に分かれて争いました。

その後も織田氏の分裂は続き、岩倉城の織田氏が北部を、分割して支配しました。

16世紀中頃、清洲方織田氏に仕える奉行の一人であった織田信秀は実力をたくわえ、

津島地方から熱田に進出し、統一への足がかりを築きました。

守護代

鎌倉・室町時代に守護の職務を代行した役人。

一般に官職を当人の身代わりとして行使するものを代官とよぶが、守護代もその一形態。

応仁の乱

室町時代中期(1467~1477年)の応仁元年に発生し、文明9年までの11年間に及んで継続した内乱。

勝者は、将軍の地位を得た富子と9代足利義尚、官領の地位を独占した細川家でした。

しかし結果、京都は焼け野原、将軍の威光はなくなり、

中央では有力な守護大名が室町幕府の実権を握るようになっていきます。

 

写真:重要文化財、織田信長座像。

 

7-2.  信長と秀吉

岩倉城を攻略し、尾張の統一をほぼ完成させた信長は、美濃攻略に着手しました。

これ以後信長の目標は全国制覇に向かい、楽市・楽座令交通路の整備など新しい政策を打ち出しました。

信長が天下統一のあしがかりとなった1560年の「桶狭間の戦い」概要は、名古屋市緑区散策(歴史編)、史跡・特徴的な町並み・社寺を参照ください。

信長の没後、秀吉がその後を継ぐ形となり、天下取りの道を進みます。

検地・刀狩などの政策をとり、主要な都市や金山・銀山を支配下におさめ、ほぼ全国統一を果たしました。

写真:(左)500円硬貨、(右)天正大判。

 

世界一大きな金貨・天正大判(桃山時代)

安土桃山時代に豊臣秀吉が金細工師の後藤家に制作させました。

世界で一番大きな金貨で、縦17cm横10cmもあります。

表面には「拾両」「後藤」の文字がすみで書いてあります。

この天正大判は、十両分の買い物ができるお金として用いられたのではなく、

大名や家来への贈り物やほうびとして使われました。(引用:キャプション)。

 

 

7-3.  在地武士たち

濃尾平也には、農村に基盤を持つ武士が多くいました。

このような在地武士は城や館を構え、各々の勢力拡大の動きを示していましたが、

次第に織田・豊臣氏の家臣団として組織されていきました。

信長・秀吉によって全国統一が進められる過程で、大名となり出身地を離れた者、

尾張にとどまり尾張藩士となった者、戦いの中で滅びた者など、たどった道はさまざまでした。

7-4.  清州

応仁の乱頃に築かれた清洲城は、次第に尾張支配の中心となりました。

織田信長も一時ここを居城とし、その後の尾張の支配者の居城となりました。

城下の人口はおよそ6~7万人と推定され、当時としては日本有数の都市でした。

名古屋築城にともない、清洲は廃城となったが、江戸時代の古城絵図や

近年の発掘調査により当時の様子をうかがい知ることが出来ます。

8、尾張藩の成立

写真:徳川義直が描いたとされる、徳川家康の肖像画。

 

徳川家康の肖像画

江戸幕府を開いた徳川家康の肖像画です。家康は名古屋城と名古屋の街を作らせた人物です。

実はこの絵は、家康に息子で初代尾張藩主の徳川義直が描いたと伝わっています。

画面上部の文も義直が書いたものとみられ、家康を誉めたたえる内容となっています。

この肖像画家らは、父親(家康)へ向ける息子(義直)の深い尊敬の気持ちが伝わってきますね。

 

・・・関ヶ原の戦いにより、天下の支配者となった徳川家康は、江戸に幕府を開きました。

尾張には、家康の子徳川義直が移封され、ご三家の一つとして重要な役割を果たす事になりました。

尾張藩は尾張一国、三河・美濃などの一部を領地として与えられ、

領内には東海道などの街道が通り、城下町名古屋は尾張の政治・経済・文化の中心として栄えました。

8-1.城下町の成立

8-2.藩主と家臣

8-3.統制

幕府は、士農工商の身分制にもとづき民衆を支配しました。

キリシタン禁止を徹底させるため、民衆の宗旨や檀那寺を調査し、宗門人別改帳に登録しました。

この改帳は、治安維持のための住民台帳にもなりました。

キリシタン禁止など重要な法令は、高札にして人通りが多い場所に掲示しました。

犯罪者に対する刑罰には、たたき・所払い・死罪などがありました。

8-4.藩領と年貢

尾張藩の藩領は約62万石で、尾張一国47万石余、美濃13万石余、

三河5000石、近江5000石余、摂津200石余におよびました。

また信濃国木曽地方も藩領となり、その木材資源は藩の収入となりました。

尾張には約1000の村があり、年貢は庄屋など村役人の責任で、藩に収められました。

年貢の大部分は米であったが、三役銀のような金銭や、堤普請、助郷役のような夫役もありました。

三役銀(さんやくぎん)

歴史民俗用語:尾張領には、夫銀(ふぎん)・堤銀(つつみぎん)・伝馬具銀(てんまぎん)の三つの役銀があった。

<ご参照>

 尾張藩・尾張徳川家コラム集 – 徳川林政史研究所

 

8-5.街道と宿場

尾張国内には、幕府支配下の街道として、江戸と京都を結ぶ東海道が通り、

鳴海と宮(熱田)に宿がおかれた。宮から伊勢の桑名へは海路となり、「七里の渡し」と呼ばれていました。

そのはか、美濃路や佐屋街道も通っていた。宿場には、公用の人足・伝馬を提供する問屋場をはじめ、

大名などの宿泊所である本陣・脇本陣、一般旅行者用の旅籠などがありました。

 

9、城下町の人々

・・・城下町名古屋は、慶長年間の清州越しによって武士・町人を主体とした町として成立しました。

城下の規模は東西約5.7Km、南北約6.1kmで、城を北におく逆三角形の形をしていました。

人口は、江戸時代中期から幕末まで、武士とその家族がおよそ4万人、

職人・商人などの町人が5~7万人と、江戸・京都・大坂の三都に次ぐ都会でした。

 

9-1.  くらし

町人の多くは城の南の碁盤割に区画された地域に住み、南北に走る本町通は、町の中心となりました。

商品経済の発達につれ町人の経済力は強くなりますが、

服装・髪型などの細かなところまで身分制に縛られ、

ぜいたく禁止などの制裁も受けました。

発掘された城下町関係の遺跡からは、食器・灯火具などが出土しており当時の日常生活の一端を垣間見ることができます。

9-2. しごと

江戸時代、商人は低い身分であったが、呉服商、米穀商、質屋などの中には、大きな経済力を持つものも現れました。

名古屋では、江戸時代前期には「清州越」の由緒ある商人が、中期には関戸家・伊藤家・内田家など新興商人が活躍しました。

職人の中には、鋳物職人を支配した水野家や、鍛冶職人を支配した津田家のようなものもいました。

9-3. たのしみ

9-4.   旅人

写真(枕算盤):(手前から)算盤・印籠・銭刀・手燭・手鏡。
枕算盤(国立資料館蔵)

組み立てた状態では枕であるが、上蓋を外すと算盤、その下が書状入れ、

側面に手鏡、手燭、いくつかの引き出しと、諸道具がコンパクトにまとめられている。

 

江戸時代の人々に自由な旅は許されていなかった。

武士は参勤交代の大名に随行するなど、公用の旅に限られ、

一般の人々は商用旅や、伊勢参宮をはじめとする社寺参詣に限られていた。

しかし、厳しい制約のなか、人々は旅に出れば物見遊山を楽しんだ。

交通手段や宿泊施設の発達していなかった当時、旅の道具にもそれぞれ工夫が凝らされた。

 

10、近世尾張の文化

写真:屏風、尾張藩御用絵師:清野一幸作。

 

清野一幸(きよのいっこう)の屏風

清野一行は、(~1695、名は重信、号は円成、童翁)は江戸で狩野尚信にまなび、

寛永20年(1643)以来、尾張藩の御用絵師をつとめました。

延宝5年(1677)には藩主より、彼ほど描ける者はいないと引退を引き留められるほどの信頼を得ていました。

狩野派に従って障壁画制作に加わったようですが、落款を示した作品は多くなく、その画業は判然としません。

そのなかで2017年に寄贈を受けた本作(写真)は彼の作風を知る貴重な一例といえるでしょう。

11、幕末維新の尾張

・・・天保の改革の失敗とペリーの来航をきっかけとして、幕府は崩壊への道をたどっていった。

長州征伐などの事件を経て、慶応3年(1867)、王政の政変によって、天皇を中心とした新政府が成立しました。

この頃、前尾張藩主徳川慶勝は勤皇派であったため、佐幕派とみられる藩士が処刑された青松葉事件がおこっています。

11-1.  長州征伐

元治元年(1864)、幕府は尊王攘夷運動の中心であった長州藩を倒すため、兵をおこした。

征長総督には前尾張藩主徳川慶勝が任命され、尾張藩士も出兵した。

出兵費用は、城下の町人などから調達金として集められました。

慶勝は長州藩の責任者を処刑し、兵を引き揚ましげた。

しかし、幕府はその処分は甘いと考えたので、慶勝との関係が悪化していきました。

 

11-2.  明治維新と民衆

維新政府は、慶応4年(明治元年・1868)に五榜の掲示として、5枚の高札を民衆に示しました。

それらは、キリシタンや強訴・徒党の禁止など江戸時代と変わらない内容のものでした。

しかし民衆は、地租改正など新政権に反対する一揆を起こすこともありました。

とくに尾張では地租が増加した地域も多く、明治10年に春日井群で大規模な地租改正反対一揆が起きています。

12、名古屋市の成立と近代産業

・・・明治政府は、明治10年(1877)頃までに学制・徴兵制・地租改正などの新しい制度を整えました。

それ以後は近代産業の育成に力を注ぎ、官営工場の払い下げ、鉄道の整備などを行いました。

名古屋も維新後しばらくは、城下町以来の消費都市から抜けきれなかったが、

明治22年市制施行の前後から、繊維業などの近代工業がおこってきました。

12-1.名古屋市の成立

明治4年(1871)、廃藩置県により、名古屋県が成立しました。

翌年愛知県と改称し、さらに額田県を合併し現在の県域となりました。

旧名古屋城下は明治11年、名古屋区に、22年には名古屋市となりました。

市政施行当時の人口は16万人弱、市域は13k㎡で現在の24分の1でした。

その後明治40年の熱田合併、大正10年(1921)の隣接16町村編入などにより、市域は次第に拡大しました。

12-2.  近代産業のおこり

<豊田左吉のG型自動織機発明>
写真:豊田左吉が発明した、G型自動織機。

 

G型自動織機、大正13年(1924)特許

機械を停止させずに自動で杼(ひ=シャトル:よこ糸を供給する道具)の交換ができる機械。

豊田佐吉が一生の課題としていたもので、世界で初めて発明されました。

この発明で織機が高速化し、布の生産量は20倍以上に増え、その生産は世界一といわれました。

豊田佐吉は、機械の発明に一生をつくし、機械の技術を大きく発展させました。(引用:キャプション)。

 

政府の殖産興業政策によって、明治20年代には紡績業を中心とする第一次産業革命が始まりました。

名古屋でも城下町以来の豪商によって、名古屋紡績・尾張紡績などの工場ができました。

そのほか織物・陶磁器・七宝・時計・織機などの工業も起こってきました。

また工場では、電力やガスを動力源として利用することによって、大量生産が可能となりました。

<尾張の七宝>

写真(明治後期):川口文左衛門作、蜻蛉文(かげろうもん)七宝手箱。

 

川口文左衛門作、蜻蛉文(かげろうもん)七宝手箱。

群れ飛ぶトンボで飾られた銀製手箱。

トンボは、銀の下地に貼りつけられた金糸によって象られ、羽根や体に透き通る釉薬が施されている。

作品を収納する箱に捺されたスタンプから、名古屋出身の職人・川口又左衛門の作と分かり、

明治36年に開催された第五回内国勧業博覧会への出品作と想定されている。(引用:キャプション)。

後日、県美術館「近代日本視覚開化」で展示

県美術館で(2023/4/15~5/31)開催された「近代日本の視覚開化 明治」で下記「鳳凰文隅切七宝小箱」「蜻蛉文七宝手箱」が展示されました。

写真(2023/4、愛知県美術館):(左)鳳凰文隅切七宝小箱」(右)「蜻蛉文七宝手箱」。

 

 

名古屋の名工、本多與三郎

写真(明治中期):本多與三郎作、鳳凰文隅切七宝小箱。

 

本多與三郎

優雅に羽ばたく鳳凰の姿が印象的な小箱。

鳳凰や周囲の花唐草文は、銅の下地に貼り付けられた金糸で象られ、色とりどりの釉薬が施されている。

この技法を有線七宝といい、金属線で緻密な文様を描く技術が競われた。

銘に「名古屋本多造」とあり、名古屋の名工・本多與三郎の作と考えられる。

<TV番組「なんでも鑑定団」>

図らずも、知り合いの七宝収集家所有の本多與三郎の作品が、人気TV番組「なんでも鑑定団」に出品されました。

鑑定結果は、200万という高評価額となり、番組を盛り上げました。(2022/12/20日、テレビ愛知・PM8:45~)。

写真:本多與三郎作、七宝香炉。

 

*TV出演後、出品者宅に伺う機会があり、たくさんのお宝からなぜ本多與三郎の作品を選んだのか?

それは、名古屋発の七宝を皆に知って欲しかったから、そしてTVで名古屋の河村市長にアピールしたのは、

自分の全身全霊を込めて、血と汗と涙で集めた七宝のコレクションを展示する「名古屋に七宝美術館」を造りたい!

との、七宝と名古屋愛に満ちた熱い思いを語っていただきました。

七宝は古くから世界各地で行われた金属工芸の一つであります。

銅や銀など金属製の器胎に釉薬を差して、高温で焼成することで、

融けた釉薬によるガラス質の美しい文様を施すのが特徴です。

諸外国で人気を博した近代の日本七宝の政策は、天保四年(1833)、名古屋の人梶常吉から始まりました。

常吉は、渡来した中国製の七宝を手本に研究を重ね、ついに独自の技法を編み出しました。

やがてその製法は、近隣の遠島村(現あま市七宝町)に伝わり、遠島は尾張七宝の中心となりました

明治維新を迎え、七宝は海外向けの輸出品として、陶磁器とともに当地域の主力産業となりました。

名古屋にも工場が設立されて大量生産による安定した供給が図られる一方、

粗製乱造を避け高品質を維持する努力が行われ、尾張七宝は内外で厚い信頼を得ることになりました。

*七宝の歴史・制作工程など下記を参照ください。

七宝の美展(七宝の歴史)。華麗なる明治七宝、七宝焼の制作工程・技法・釉の色。

12-3.  博覧会

明治以降、政府の殖産興業政策をうけ、各地で農産物・工業製品などを展示する博覧会・共進会が開かれました。

名古屋に大きな影響を与えたのは、明治43年(1910)、

鶴舞公園を会場とした第十回関西府県連合共進会でした。

見学者は、のべ260万人にも及びました。

昭和12年(1937)には、戦前では日本最大の名古屋汎太平洋平和博覧会が開かれました。

13、近代の暮らしと文化

明治維新後、洋風の衣服・食品・建物などが取り入れられるが、

生活の大部分は、なお伝統的な様式によっていました。

明治後期になると産業革命によって、名古屋などの都市に工員や事務員の俸給生活者が生まれ、

彼らを中心に近代化した生活様式が普及してきました。

また、学制によってすべての国民が教育をうけるようになりました。

13-1.新しい生活様式

欧米文化の取入れに当たっては、当初珍妙な風俗も見られましたが、

次第に我が国の生活に合わせる余裕も生じて来ました。

明治中頃には鉄道・通信・電気が整備され、生活の様子も変わりました。

都市への人口集中が激しくなる大正頃から、俸給生活者を中心に洋服の着用、洋室を備えた住居、

洋風の食事などが一般化し始め、和風様式に洋風を加えた生活様式が定着してきました。

13-2.教育

明治5年(1872)、学制の発布によって、小学校が義務教育となりました。

当初就学率は低かったが、明治末には95%を超すまでになりました。

義務教育年限は、明治19年の学校令により3年が4年に、さらに6年になりました。

教科書は、当初は各学校が自由に選択していたが、学校令によりっ検定制度が導入され、

明治36年には国定教科書しか使えなくなりました。

14、戦争と市民

昭和6年(1931)年の柳条湖事件で始まった日中間の戦争は、12年の盧溝橋事件で本格化しました。

翌年戦争遂行に必要な資源・労働力を優先的に使用するため、

国家総動員法が定められ、国民は戦争協力体制に組み込まれていきました。

昭和16年、太平洋戦争が始まり、昭和19年には本格的な本土空襲が始まりました。

14-1、召集

名古屋には、歩兵第連六連隊をはじめとする第三師団が置かれていたが、

昭和12年(1937)日中戦争が勃発したので、中国大陸へ派遣されました。

戦争が本格化するとともに、兵役適齢者は次々と招集をうけました。

さらに、兵役年齢の拡大や、学徒の徴兵猶予を停止することにより、兵士の不足を補いました。

愛知県出身者の全戦没者は、約10万人と言われています。

14-2、戦時下のくらし

戦争遂行のための軍需工業が優先されることにともない、

市民の消費生活は次第に圧迫されていきました。

昭和13年(1938)民間用綿製品の製造・販売が禁止されたのに続き、

生活物資の切符・配給制が順次導入され、代用品も現れてきました。

一方、戦争協力のために、町内会は行政末端組織とされ、

また翼賛壮年団・婦人会などの戦争協力組織が、職域・地域に幾重にも作られました。

14-3、空襲

 

14-4、復興する名古屋

昭和20年(1945)8月15日、日本の無条件降伏によって戦争は終わりました。

空襲で家を失った市民は焼け跡にバラックを建て、市内各所にはヤミ市が開かれました。

この頃、名古屋市は思い切った戦災復興の都市計画を実施しました。

防災上の理由で50m・100m道路を造り、また計画に必要な土地を確保するため、市内の墓地を平和公園にしました

15、米づくり

15-1.米づくり

田起こしに始まり収穫まで、農村の一年の生活は米作りを中心に営まれました。

施肥法、除中法になど農業技術が改良され農具も徐々に変化してきました。

江戸時代には各種の鍬が、また明治になると改良された犂(すき)が普及しました。

特に改良が著しかった農具は千歯扱き(せんばこき)・万石櫛(まんこくとおし)、

足踏み脱穀機などの稲の脱穀から精白に使用する道具類でした。

16、まつり

・・・名古屋では、戦前の東照宮祭・若宮祭・那古野神社天王祭に代表される、

華やかなだしを引く祭りが盛んです。

熱田における南新宮社の祭礼にも、かっては大山と車楽(だんじり)が出されていました。

これらは、夏の疫病を防ぐ津島祭りの影響を受けて始められたもののようです。

このほか、尾張地方の特徴的な祭りには、馬の搭や獅子神楽(ししかぐら)などがあります。(引用:キャプション)。

16-1.  山車とからくり人形

写真:(左)からくり人形、(中央)山車。

尾張地方の山車は、その多くにからくり人形を載せているのが特徴です。

江戸時代前期に始まる名古屋東照宮祭によって、当地方のからくりは盛んになりました。

当初山車に飾られたのは、動かない人形であったが、

次第に精巧なからくり人形が用いられるようになり、

細かな所作をみせる糸からくりや、大胆な離れ業で人目を驚かす離れからくりなどが発達した。

 

来年度以降の基本計画

「名古屋城博物館(仮称)」基本構想

・・・名古屋城天守閣の木造復元事業に合わせて、隣接地に建設する「名古屋城博物館(仮称)」について、

名古屋市は本年度中に基本構想をまとめ、来年度から基本計画の策定に着手すします。

名古屋城の歴史的な価値や魅力を発信し、国内の城郭についても学ぶことができる、

名古屋城の総合博物館を目指す。(引用:名古屋市博物館基本計画の一部)。

その他

写真:ロダンの「考える人」、名古屋市博物館所有。

「考える人」陸前高田市へ貸し出し

・・・彫刻家ロダンの作品で、名古屋市博物館で展示している市所有のっ銅像「考える人」が、

今秋から、友好提携を結ぶ岩手県陸前高田市の市立博物館に無償で貸し出される見通しとなった。

同館は、東日本大震災で被災し、昨秋に再建したばかり。貸出期間は名古屋市博物館が大規模改修で休館する約3年間。

国内では4体しかないロダンの代表作が、白川の関を超える。(2023/1/6日、中日新聞)。

友好提携が縁、今秋にも

・・・今月中に陸前高田市立博物館で現地調査を行い、像が問題なく搬入できるかなどを調べた上で貸し出しが確定する。

10月以降に陸路で運ぶ予定で、輸送費は名古屋市が負担する予定だ。

同市博物館の「考える人」は1977(昭和52)年の同館オープンに合わせ、

市内の女性=当時(88)=が私財で購入、市に寄付した。

本体は高さ約1.8m、重さ約9百キロで価格は台座製作費なども含め約8千万円。

以来、本館1階ロビーで来場者をで見替えて来た。

ただ開館40年を超えて施設の老朽化が進むことなどから、市はリニューアルを決定。

2024年度に工事を始め、26年度からの順次再会を目指す。

工事中の収蔵品の置き場所を検討していた昨年の一月、「考える人」について「せっかくの美術工芸品。

倉庫に眠らせるより、見て楽しんでいただいた方が良い」という意見が出て、貸出を見当。

市内の商業施設やホールなども候補に挙がったが、東日本大震災以降、

友好提携を結び、学芸員の交流もあった陸前高田市立博物館に決まった。

両博物館館長の話

陸前高田市立博物館の松坂泰盛館長(78)は「まさかの出来事。

大事なものを貸していただけて市民も驚く。本当にありがたい」と喜ぶ。

同館は昨年11月、東日本大震災で被災してから11年8か月振りに再建されたばかり。

既に来館1万人を突破したが「ロダンを見ようとさらに人が来るだろう。

博物館はにぎわい。町も活性化する。両館の友好がずっと続いて欲しい」と願う。

名古屋市博物館の三芳研二館長(65)は「都市の交流は役所同士の連携、協力というイメージだが、

一歩踏み出し、文化を通じて市民に直接働きかける新たな形を提案したいと考えた」と意義を語る。

その上で「新しく生まれ変わった陸前高田市立博物館に来館される多くの皆様が作品を楽しむとともに、

名古屋を身近に感じるきっかけになれば」と話している。

考える人について

「近代彫刻の父」とうたわれたフランスの彫刻家。オーギュスト・ロダン(1840~1917年)による鋳銅像。

詩人ダンテが瞑想(めいそう)する姿を表現し、ロダン芸術の最高峰とされる。

ロダンは1916年、すべての作品と芸術的財産権をフランス政府に寄贈しており、

鋳造権利は現在、フランス政府が管理。

仏国立ロダン美術館は「像は世界中に多数存在する」としている。

日本では、名古屋市博物館のほか、国立西洋美術館(東京)、京都国立博物館(京都市)、

静岡県立美術館(静岡市)に展示されている。(2023/1/6日、中日新聞)。

 

 

分県運動、「三英傑」背後に多様性

・・・県政150周年記事で、県が現在の形となった当初には分県運動があった。

名古屋市博物館学芸員、木村慎平氏がインタビューに答えていました記事を紹介します。(2022/12/4、中日新聞)。

写真:名古屋市博物館学芸員、木村慎平氏。(2022/12/4日、中日新聞)。

<木村慎平氏>

名古屋市蓬左文庫・名古屋城調査研究センターなどの勤務を経て、

現在は博物館学芸課所属。愛知県史特別調査執筆委員を務めました。

分県運動

合併させ、ひとまとまりにした方が、行政的にやりやすいと明治政府が考えた。

見えた岐阜と三重の県境のように河川があるなど目に見えて明確な境目があるわけではないし、

地元の人たちが何か意見を言ってそうなったわけでもない。

三河からすれば、いろいろな不安があったはずだ。

予算配分にしても、木曾三川の工事に多額の経費が必要になる時には三河にはあまりメリットがない。

尾張と三河の違い

県庁が名古屋市内に置かれ物理的な遠さもある。もともと尾張と三河には違いがあった。

江戸時代には終わりにはご三家筆頭の強大な尾張藩が統治していた。

それに対し、三河は西尾や岡崎、吉田などがあり、それぞれに城下町を抱えていた。

江戸時代からの成り立ちが異なり、三河は尾張ような一体感が持ちにくかった。

三河は明治20年代に、岡崎の政治家を中心に分県運動を展開するが、三河の中で連携できなかった。

明治30年代には、県の中で、自分たちの利をどう実現するかという発想に変わっていった。

県民のアイデンティティー

県民としてのアイデンティティーはどう出来上がっていったか。

例えば、愛知県の観光戦略などを調べた範囲では二つの要素がある。

一つは「ものづくり」。これは三河にトヨタグループなどの産業が発達したこと。

もう一つが「三英傑」。愛知は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を輩出した地域だとよく言われる。

この三人を並べると、県を一つとして語ることができ、なおかつ外に向かってアピールしやすい。

明治時代、岡崎出身の有名な地理学者、志賀重昂は、東京で学ぶ県出身の学生への学費援助を募る団体をつくった。

その際、志賀は「愛知県は天下統一を果たした英傑を輩出した地域だ」という語り方をしている。

「三英傑」が愛知を語る共通項目となった、と。県民性は、外との違いを比べることで生まれてくるのではないか。

愛知には多様性がある。尾張と三河は大きく違うし、名古屋といういう巨大な都市部もある。

濃尾平野と山間部があり、半島は二つもある。知多半島は江戸時代には海運で栄えた。

街道の要所だった地域もある。これだけ要所が多くある中で、愛知をひとまとまりに語ることが出来る、

「三英傑」が注目されるのは、当然の帰結かもしれない。(2022/12/4日、中日新聞)。

 

名古屋市博物館のまとめ

・・・三英傑の出身地、農業・商業・繊維産業・陶磁器・七宝など日本に大きく貢献した地域を再認識しました。

時代別・項目別にキャプションに表示しされ、歴史的展示資料とともに鑑賞でき歴史の勉強にも最適です。

その他として、”滝の水公園と伊勢湾台風”と新聞記事の”分県運動、「三英傑」背後に多様性”を載せました。

本記事記載の時代別キャプションは、事前準備や歴史のおさらいに活用いただければ幸いです。

今後も引き続き充実を図ります。最後まで読んでいただきありがとうございました。