アート

新版画の歴史・評価と川瀬巴水の作品

 

・・・数年前、木版画に造詣の深い知人の方から「夕暮れ巴水」の本を、ありがたく頂戴いたしました。

その後、2022年9月に大府市歴史民俗資料館で川瀬巴水展が開催されました。

近年、有名美術館などで次々と川瀬巴水の展覧会が開催されています。

写真:大府で川瀬巴水版画展(2022/9/10、中日新聞)。

 

彼の作品の特徴は、大正末期から昭和初期にかけての日本的風景画とその中に郷愁を感じさせます。

それも色調の暗い夕方から夜、あるいは雨や雪などの景色を取り入れた作品に手腕を発揮しています。

かれの版画作品「新版画」は、戦後日本を訪れた外国人に土産物としても人気がありました。

そこで、「新版画」の歴史的・人的な背景はどうだったのか、記事にしました。

「新版画」の時代背景・評価、作品について参考になれば幸いです。

新版画の歴史

「東京二十景」
写真:《芝増上寺》東京二十景 1925(大正14)年 木版、紙 渡邊木版美術画舗

新版画の歴史的背景

新版画とは

・・・大正初期に、版元・渡邊正三郎(1885~1962)が始めました。

浮世絵の彫りと摺りに、同時代の画家の絵をあわせて新しい表現を開拓した動き及び作品をいいます。

当初は渡辺氏一人の事業でありましたが、その成功に押されて昭和に入っていくつもの版元が参入しました。

戦中までに制作された作品総数は2000点から3000点とも言われます。

浮世絵の没落を憂いて

<高橋松亭とのコラボ作品>

・・・当初渡辺は、外国人相手に浮世絵を商う古美術店から出発しました。

明治30年代の浮世絵界はかっての活況を失い、新作の刊行が先細りの状況にありました。

江戸時代以来、時間を掛けて洗練を極めてきた彫りや摺りの技術が無用になってゆく・・・。

この事態を憂いた渡辺は、高橋松亭という絵師とともに新作の出版に乗り出しました。

日本の風景を題材に情緒的な大短冊版を製作し、軽井沢の外国人向けの店に並べて好評を博しました。

この経験から、渡辺は新作への手ごたえと、さらなる新事業のための資金を得ました。

新版画の始動

・・・その後、古版画の復刻を手掛けて浮世絵の技術や画材の知識をさらに蓄えた渡辺は、大正4年(1915)いよいよ新版画を始動させます。

最初に組んだ絵師、フリッツ・カペラリは、意外なことにオーストリア人でした。

彼は、日本美術に関心を抱いて来日しましたが、第一次世界大戦の勃発で故国に帰れなくなりました。

この異邦人に下絵を描かせた渡辺は、同年の内に12点もの作品を完成させました。

カペラリの新版画は、風景画や美人画も、花鳥画にしても、浮世絵の構図や型を想起させるものが多いのですが、

カペラリのユニークな線やグラフィック構図を木版画にすることで、

その結果、彫師や摺師を長年の修行で身に付けた決まりごとから解放し、かってない表現を受容たのでした。

カペラリとの試行錯誤の延長線上に、伊藤深水川瀬巴水の新版画は実を結んだと後年渡辺は書き残しています。

(千葉市美術館の学芸員西山順子氏:美術手帳より抜粋)。

 

橋口五葉・伊藤深水・川瀬巴水など登場

・・・カペラリとの共作に確かな感触を得て、渡邊は次々に画家たちに声をかけました。

チャールズ・バートレット、橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、名取春仙、山村耕花、エリザベス・キースらでした。

結果、個性的な作家たちによる、いずれも木版画本来の美質──和紙にくっきりと映える墨色や、

和紙に摺り込まれた透明感のある水性顔料の重なり──をそなえた、バラエティ豊かな一群が世にでることになりました。

大正10年(1921)6月、渡邊は日本橋の白木屋呉服店で「新作板画展覧会」を開催し、それまでに刊行した新版画を一挙に披露しました。

11名の作家による、総点数150点の堂々たる展観でした。翌年5月にも同じ会場で「第二回同展」を開催、どちらもマスコミに取り上げられて好評を得ました。

新版画は世界へ

・・・ところが、その翌年の大正12年9月1日に関東大震災が発生して京橋にあった店は全焼し、

新版画の版木と作品の大半は、古版画などの貴重な資料もろとも失われました。

だが渡邊は、高橋松亭作品の再版などから版元業を再開し、店の再建を果たします。

震災後は、よりわかりやすい作品へと舵をきったものの、以前と変わらぬ丁寧で良質な仕事を続けてゆきました。

新版画は国外、特にアメリカでよく売れました。今日ある在外コレクションや新版画への高い評価の礎は、この時期に形成されました。

版元制度の崩壊と変遷

版画・印刷の技術過渡期

江戸以来の浮世絵版画が衰退し、新版画が台頭して来た背景は前述の通りでありますが、

ここでは主要なメディアであった従来の浮世絵や版画に携わった人たちと仕事の役割が、その後いかに変遷したかを検証しました。

版画・印刷の新技術

西洋からもたらされた銅版や石版、写真が浸透したことにより、明治時代は、の版画・印刷の技術過渡期でありました。

文明開化に前後して西洋から伝わった版画技術──精巧で緻密な表現が可能な銅版や大量複製に適した石版、そして写実性に秀でた写真──が浸透しました。

多色刷り木版画は、徐々に主要なメディアとしての役割をそれらに譲ってゆくことになります。

仕事の役割の変遷

そのなかで木版画は、明治時代に生まれた新聞・雑誌の挿絵単行本の口絵美術図版の製作

あるいは浮世絵の複製などに道を見出してゆくことになりました。

版元制度崩壊(離散・廃業)

メディアの転換が生じるなか、絵師・彫師・摺師の3者からなる江戸時代以来の版元制度も崩壊しつつありました。

絵師

絵師は、展覧会に出品される肉筆画が重視されるようになるにつれ、版画制作者から画家へと身分の脱却を図りました。

彫師

一方、新聞や雑誌には活字と組み合わせて美麗な木版口絵が多く採用されたため、彫師はここに役割を見出しました。

摺師

そして残る摺師は、伝統的な三者協働体制に自らの場所を持つことになりました。

結果、かつては版元の中に収まっていた3者が異なる役割へと離散し、あるいは廃業せざるをえない状況に追い込まれました。

木版画の複製性

このように明治期を通じて、メディアの需要の高まりに応じるなか

木版画は、複製性にかろうじて自らの道を見出しました。時期を同じくして、

ヨーロッパ、アメリカでは浮世絵が高い人気を誇り、浮世絵複製の需要が急激に高まるようになりました。

新版画の評価

「東京十二題」
写真:《月嶋の渡舟場》東京十二題 1921(大正10)年10月 木版、紙 渡邊木版美術画舗

 

新版画の「国内の評価」

この明治期の背景により木版画の立ち位置は、複製性を強く帯びるようになりました。

そのことで木版画は、日本国内においては、概して認識も評価も低いというのが実情でありました。

新版画の「海外の評価」

一方、ヨーロッパ、ついでアメリカでは浮世絵が高い人気を誇り、浮世絵複製の需要が急激に高まるようになります。

新たな販路を求めて

新版画は日本だけでなく「外国で一発狙おう」という目的がありました。

そこで大きな役割を果たしたのが、アメリカの女性アーティストであるヘレン・ハイドや、オーストリアの男性アーティスト、エミール・オルリックです。

彼らをはじめとして、外国人アーティストが木版画に興味を持って一緒に作っていきました。

その結果、新版画は「アート性が高まっている」&「日本の当時の文化を押し出している」というのが特徴になりました。

「芸術」として外国に売り出した、というのが浮世絵との最大の違いと思います。

加えて、「日本文化」を派手に表現しているので、ある意味「浮世絵より日本っぽい」というのがポイント。

今でも我々は新版画を見ると、なんとなく「懐かしい」とか「落ち着くわ」という感情を持ちます。

そこで、特徴ある作品を紹介

<橋口五葉>「髪梳ける女」

淡い色合いのなかに緻密さがあり、日本らしい“しっとり感”がある作品ですね。木版画ならではの情緒ある構図となっています。

<川瀬巴水>「芝弁天池」

比較的、強い色を使っていますが、すごく静謐です。わびさび然としたアート性があります。

アップルのスティーブ・ジョブズがファンだったのは比較的有名なエピソードでしょう。

<吉田博>「光る海(瀬戸内海集より)」

吉田博もまた、新版画の代表的な画家です。彼の作品展で、ダイアナ妃が「光る海」を執務室にかざっている写真を見ました。

この作品は瀬戸内海を描いたものですが、油絵では出せない質感です。

ロバート・ミューラーの紹介

この「新版画」はもともと海外向けのマーケティングをしていた、とお伝えしましたが、

ロバート・ミューラーというアメリカの鑑定士が紹介したことによって、海外での人気が爆発しました。

その結果としてスティーブ・ジョブズ以外にも、ダイアナ妃、マッカーサーなどが「新版画」のファンだったといわれます。

海外の人気が先

残念ながら「新版画」も日本より先に海外で人気が出たジャンルだったんです。

日本での認知は2009年に江戸東京博物館で開かれた回顧展がきっかけだったといわれます。

そこから人気が再浮上し、2021年には平塚美術館、町田市立国際版画美術館、SOMPO美術館などで展覧会が開催されています。(引用:イロハニアート)。

版元、渡邊庄三郎の努力

・・・最近人気が浮上した「新版画」ですが、その創始期から版元と風景画の主流絵師だった川瀬巴水の動きを追います。

新版画を創始

明治~大正へ時が流れるなかで版元の渡邊庄三郎は、大正4年(1915)、絵師・彫師・摺師の協働による、

伝統的な木版技術の復興と版画の普及を目指して「新版画」を創始に至ります。

それは、複製的なメディアとなっていた浮世絵版画に、

美術としての創作性と、木版画が独自に有する表現を追求するものでした。

版画制作を幅広く展開

前述したように渡邊は、浮世絵が人気を集める海外もマーケットに据えていました。

そして作品の対象を美人画、風景画、役者絵、花鳥画と幅広いジャンルで版画制作を展開しました。

その結果、「新版画」は、日本国内のみならず1920年代から30年代にかけて、広く欧米で受け入れられるようになったのでした。

川瀬巴水の風景画を展開

「東海道風景選集」
写真:《駿河興津町》東海道風景選集 1934(昭和9)年3月 木版、紙 渡邊木版美術画舗。

 

版元・渡邊庄三郎が創始した「新版画」において、版画家の川瀬巴水は風景画を牽引する存在でありました。

ここでは“旅情詩人”とも呼ばれた巴水の創作活動の軌跡を、木版画の代表作とともに概観してゆきます。

 

川瀬巴水の作品

・・・「新版画」の川瀬巴水の風景画は、どことなくなつかしさを覚える日本の原風景がそこにはあり、日本人のDNAに響きます。

版画家・川瀬巴水の誕生

生い立ち

明治16年(1883)、東京・芝の露月町に生まれた川瀬巴水(本名・文治郎)は、幼少期より絵を好んだ。

糸組物製造の家業を継がず、画家を志した彼は日本画・洋画をともに学び共に精進しました。

27歳の折りに近代日本画の巨匠・鏑木清方に正式に入門、「巴水」の画号を授かります。

同門の伊藤深水と後に、「風景画の巴水」「美人画の深水」と呼ばれるまでになります。

新版画(風景木版画)との出会い

同じく清方に師事していた伊東深水の連作木版画『近江八景』に感銘を受け、木版画制作に意欲を燃やした巴水は、

深水の連作を手がけた版元・渡邊庄三郎のもとで、大正7年(1918)処女作風景木版画「塩原おかね路」を出版した。

以後、渡邊正三郎の好プロデユースを得て日本各地に取材した風景版画シリーズを出版した。

「旅みやげ第一集」・「同第二集」、「東京十二題」などを制作、刊行し好評を博しました。

生涯を風景画とともに

<処女作「塩原おかね路」>
写真:《塩原おかね路》1918(大正7)年 秋 木版、紙 渡邊木版美術画舗。

前述の「塩原三部作」の題材となった栃木の塩原は、巴水が幼少期より慣れ親しんだ地でありました。

同作は《塩原おかね路》、《塩原畑下り》、そして《塩原しほがま》から構成され、

これが好評を得たことから、渡邊庄三郎は風景画を巴水に任せ、巴水は生涯にわたって風景主体の新版画を手がけます。

「ザラ摺」

「塩原三部作」には、渦巻状にバレンの跡を残すことで表情豊かな質感を生む「ザラ摺」が使用されています。

これは渡邊版の新版画に独特の摺りで、巴水作品にも多く見ることができます。

伝統的な木版画の技術において、ザラ摺は未熟とされてきたものの、

渡邊はそうした伝統に固定された摺りから脱却し、木版ならではの表現として取り入れていったのでした。

 

「旅みやげ第一集」
写真:《陸奥三嶌川》旅みやげ第一集 1919(大正8)年 夏 木版、紙 渡邊木版美術画舗

 

関東大震災後の活動

大正12年(1923)関東大震災で写生帖188冊ほかすべてを失いました。

しかし、版画創作への情熱を奮い立たせ102日間の写生旅行を敢行しました。

その成果を翌年より「旅みやげ第三集」(大正13年~昭和4年)として発表しました。

その後、日本風景選集、東京二十景、東海道風景選集ほかを次々と発表し、

500点余りの風景版画作品を残して、昭和32年11月17日(1957)、享年74歳でした(合掌)。

その日本的風情と抒情性をたたえた作風は「昭和の広重」とも呼ばれ、内外の版画愛好家に高く評価されています。

代表的作品

「東京二十景」
写真:《馬込の月》東京二十景 1930(昭和5)年 木版、紙 渡邊木版美術画舗。

 

写真:《増上寺之雪》1953(昭和28)年 :木版、紙 渡邊木版美術画舗。

 

<絶筆、「平泉金色堂」>
写真:《平泉金色堂》1957(昭和32)年 木版、紙 渡邊木版美術画舗。

 

以上、「新版画の風景画家・川瀬巴水」(ファッションプレス)及び「夕暮れ巴水」林望著(講談社)より抜粋。

「夕暮れ巴水」林望著(講談社)

写真:清洲橋(昭和6年2月制作)。

最後に、「夕暮れ巴水」(林望著)の表紙絵寄稿文を紹介します。

<「夕暮れ巴水」表紙絵寄稿文>

川瀬氏の版画は、その技術こそ

旧来の浮世絵職人に依拠するところ多かりしかど、

その画に横溢するノスタルジアは

余人のよく追随するところのあらず。

取り分け、暮色に包まれたる閑寂の風景を

描かせては古今独歩東西独往、

故に吾人私に川瀬氏を呼んで曰く「夕暮れ巴水」と。

林 望 「巴水讃」より

 

新版画の歴史・評価と川瀬巴水の作品のまとめ

・・・大正から昭和にかけて、伝統的な浮世絵版画の木版技術を使用し、高い芸術性をもつ木版画制作を目指して興した「新版画」。

とりわけ人気の高かった風景画の川瀬巴水は、新版画を推進した版元・渡邊庄三郎とともに40年にわたって共作を展開しました。

日本の近代化が進むなか幾多の困難を乗り越え全国各地を旅し、庶民の生活が息づく四季折々の風景を描き続けました。

一方「新版画」の評価は、江戸時代に発展した「浮世絵」から現在の「創作版画」に至る間の歴史的位置づけの中にありました。

しかし近年、美術的評価も高くなり、大手有名美術館などで次々と展覧会が開催されています。

「新版画」の果たした役割は、版画技術の継続と発展、人的継承の面で大きく貢献しています。

現在、我々が木版画を楽しむことが出来るのは、幾多の困難にもめげず真摯に「新版画」に活路を見出し、

その存続にたゆまず努力し、木版画を愛した先人たちの功績であると確信します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。