プロフィール、人生の歩み。

プロフィール

出生

1946年、鹿児島県生まれ。7人兄弟の下から2番目のせいか?

何故か乳幼児期の写真は何処にもありません(笑と涙の人生を予感)。

という訳で一番幼い頃の写真は、実家の庭先で撮った小2の頃の写真1枚です。

因みに当時、後ろの畑の下は崖になっていて、市内で2番目に大きな川が流れていました。

そこは「人生最大の危機」!私が川遊びでおぼれた稲荷川です。

写真:父の長靴は大きかった。

住所

名古屋市内にて、サラリーマンの身で自ら設計した戸建に在住。

よって、3か所ほど設計ミスのある愛しい我が家と、何とか30年以上在住。子供二人、孫三人。

趣味

木版画制作(年中)、ギター演奏(たまに)、旅行(願望)、DIY工作(専ら小庭と住宅周りのメンテナンス)。

スポーツ

観戦含め全般的に好きです。サッカー・柔道・水泳・バレーボール・体操・相撲(但し、格闘技は観るだけに特化)。

人生の歩み

幼少~小学校時代

・・・山・海・川に囲まれ自然に恵まれた環境で、近所のお兄ちゃんや友達と毎日遊んでいました。

一方、自然と危険は隣り合わせでした。小学校三年の夏休み、実家と隣接した川でおぼれたところを助けられた経験があります。

助けていただいた近所の兄ちゃんに感謝です【ブログ記事:水の事故の現状と対策:川でおぼれたが助かった!】に記載しました。

夏休みといえば、ラジオ体操・くろんぼ大会・カブトムシ捕り・夏祭りの子供相撲大会など思い出します。

コント55号の坂上二郎さんの実家は同じ町内で、彼の実家の庭は広く、町内の子供の夏休み中の「早朝ラジオ体操」の場所でした。

TVで二郎さんが映ると、彼のお父さんの顔(瓜二つ)を思い出します。

かれの実家の庭にあった大きな池に、たくさんの鯉が泳いでいたのを思い出します。

小学校当時はいたずら小僧でした。バケツを持って廊下に立たされました。ビンタも食らいました。

バケツ体験:音楽のテストで楽譜が記され、曲名を当てる問題でした。つい、譜面にそって口ずさんでしまったのです。

静寂な教室のムードは壊され、先生の逆鱗に触れてしまいました。

ビンタ体験:職員室に近い校庭の隅に、水飲み場がありました。蛇口を指で押さえ校庭(一部生徒)に向け噴射ー。

美しい虹を再現すべく霧状の噴射を模索中に、先生に見つかり大目玉をくらいました。

毎年開催される全校絵画コンクールにおいて「特選」をとり一度だけ褒められたことを覚えています。

小4の時でした。作品は市の美術館が保管するそうで、戻ってきませんでした(涙)。

写真(小6の頃):単車に乗るのが好きでした。

中学時代

・・・サッカー部に入部、楽しくサッカーボールを追いかけていました。

しかし、入部して2年目にキャップテンが”俺のサポーター(パンツ)を洗え”と言うので、反発して止めました。

私の実家は米屋でしたが、丁度そのころ実家の米穀商をしていた父親が病に倒れました。

よって部活を止めた中二の頃から、父に代わり自転車で「米の配達」を手伝い始めました。

当初、自転車の荷台に米を積んで配達する姿を同級生に見られるのが恥ずかしかったのです。

ところが、配達先の家の中では同級生の方も恥ずかしがっているのが分かりました。

な~んだ、お互い恥ずかしがることは何もないではないか!(何故か恥ずかしがる時期なのでしょうね)。

それから配達する姿を見られる事の恥ずかしさは解消しました。(そう!悪いことをしているわけではないですから)。

同級生には、「家が小さくても貧しくても、今はそのまま受け入れるしかない!ガンバレ」と言いたい思いでした。

お米は重く、自転車では大量に運べず、配達回数が増えるだけで効率が良くないと思いました。

そこで、16才の誕生日を機に自動二輪の免許を取りました

実は単車に乗る練習は兄に手伝ってもらい、中学生になってから実家にある「カワサキ・メグロ」を使い、

近所の玉龍高校のグラウンドで夜間練習をしていました。

当時は高校に門など閉めてなく、近所の子供が自転車(三角股乗り)や野球の練習などしてました。

 

高校時代

・・・高校の入学式の後、校内放送がありサッカー部に呼ばれました。

部室に入ると、なんと~中学時代”俺のサポーター(パンツ)を洗え”が、高校でもキャップテン!~でした。即、入部をやめました。

体育系の部活

・・・体育系の部活は、水泳部に決めました。水泳部を選んだ理由は、腰の筋肉を鍛えるためでした。

実は、中学3年の冬休みの事でした。年末の米屋は、もち米や練炭の配達が加わり普段より多忙になります。

通常米の仕入れは、食糧販売組合の大型トラックが、各地の米屋に販売用の米俵を届けに来ます。

そして、大型トラックの荷台から米俵(60Kg)を担ぎ、食料販売組合のおじさんたちと一緒に実家の精米機のある部屋まで運搬を手伝ったのです。

食糧販売組合のおじさんたちは、「そんな細い体で力があるなー」と、褒めてくれました(豚も褒めれば木に登る見本です)。

しかし、当時50kgそこそこの体では腰を痛めてしまい、その夜から丸3日間、寝込んでしまいました。

腰の痛みはすぐに治りませんでした。そこで、背筋のリハビリを兼ねて重いものを持たない水泳部に入部したのです。

水泳部では、3年の時キャプテンを任され県大会に出場。決勝ではビリから2番目でした。

おまけに、残り50mのターンの時しぶきを喉に詰まらせ呼吸が出来なくなり、危ない体験をしました。

ブロブ記事:幼少の頃、川で溺れて恐怖症。中3で金づち克服】に記載しました。

柔道の寒げいこ

・・・毎冬柔道の寒げいこにも参加しました。年初1月の校内行事で、授業前の早朝練習です。

寒げいこに参加当初は、授業が始まる前の起立の号令にやっと体が動くぐらいのハードな練習でした。

しかし、毎朝つづけていくうちに体が慣れてくるのでしょうか、疲労を感じなくなる不思議な体験をしました。

TVのスポーツ競技に出てくる選手やオリンピックに出場するような選手のフィジカルは、凡人とはけた違いであると認識させられました。

文化系の部活

・・・文化系部活では、ペンフレンドクラブに入りました学生の海外文通を支援するペンフレンドクラブなる世界規模の組織がありました。

私は登録者アドレスの中からノルウェーの16才の少女を選びました。彼女との文通が思い出です(5年ほど続きました)。

そのころの日本は、ドイツをしのぎ経済的に世界第2位となるなど勢いのある時期でした。

しかし文通で判明した正直な感想は、北欧諸国のゆとりある日常生活と住宅事情(写真で見る居住環境)でした。

それは、当時の日本よりはるかに豊かで充実している!驚きでした。

例えば文通のトピックスは、週末ごとのパーティーと近隣諸国への旅行・エンタメではビートルズの話題が主でした。

日本側からのトピックスは丁度、1964年のTOKYOオリンピックを迎えていました。

その東京オリンピックの記念グッズを送り、喜ばれたことが幸いでした。

坂本九のスキヤキソングも十分話題になりました。

ビートルズが日本に初来日したのは、それから2年後の1966年6月でした。

高校3年の時、市内の高校生ペンフレンドクラブで海外文通展を、大手デパート山形屋のギャラリーで開催しました。

各自の持ち寄った文通では、情報不足なので、日本にある各国の大使館に自国のパンフレットの展示をお願いしました。

言い出しっぺの私が、パンフレットを集める役目になりました。

各大使館に展示会の趣旨と”貴国を知りたい・PRしたい”旨の文言を添え、発送しました。

幸運にも10ヶ国ほどのパンフレットがあつまりました。

中でもスイス大使館の充実した内容・誠実さがあふれた資料に感激しました。

何の見返りのないオファーに答えてくださった、スイスのお国柄に好感を抱きました。

展示会は地元の新聞も取り上げるほど盛り上がり、無事終了しました。

義務の枠を超えた親切な行動に感謝し、各大使館にパンフレットを提供していただいたお礼の手紙を送りました。

歌手の西郷輝彦さん。

・・・高校時代に忘れられない出来事がありました。と言うのは歌手の西郷輝彦は高一年の時、隣のクラスにいたとの事でした。その時は彼の存在は知りませんでした。

高2~3年の時、彼のマブダチK君と同じクラスになり知りました。

「今川(西郷輝彦の本名)がロッテ歌のアルバムでデビューするから見てくれ~!」とのことでした。

K君がクラスの皆に言うので、西郷輝彦のTVデビューを見ました。「司会は玉置宏でした」懐かしい(笑)。

彼はデビュー後、しばらくして高校に挨拶に来ました。講堂に集まり、校歌を一緒に歌いました。

彼はブラスバンド部でしたので、しっかり歌詞も覚えていました。

彼が校門を出る時「サインをもらった」と、見せに来た友達の学生手帳の中の白いページに書かれた「西郷輝彦のサイン」を思い出しました。

デビュー曲は未だ「君だけを」でしたが、彼が言うには「もう16曲も吹き込んでいます。

レコードを一枚買っていただくと2.5円入るので宜しく」(笑)、とのことでした。

彼を応援する気持ちもあり、私は初めてレコードを買いました。「君だけを」が500円でした。

そして、もう一つの曲「チャペルに続く白い道」は、今ではカラオケの定番になっています(笑)。

西郷輝彦が去った後の講堂で、生活指導の先生が雷を落としました。「西郷輝彦の時は2分で講堂に集まったのに、先週の防災訓練の時は10分もかかった!」でした。

東京に修学旅行の時、旅館の私たちの部屋に西郷輝彦が訪ねてきました。同じ部屋のK君(彼のマブダチ)に会いに来たのです。

まじかで見る彼は、TV映りに比べはるかに痩せていました

彼と目があった時、思わず大丈夫か?と聞いてしまいそうになるほどでした。

一緒に写真を撮りました。皆、彼を心から応援する気持ちだったと思います。

数日後「週刊誌に記事が載ったよー」と、マブダチK君がクラスの皆に旅館の部屋で撮った写真の載った記事を見せました。

家庭の事情や経済的理由などで、中学・高校を卒業し田舎から上京して皆が頑張っている時代の一コマでした。

西郷輝彦さん訃報。

残念ながら2022年2月20日、彼の訃報がTV他多くのメディアから流れてきました。以下、番外編に記載しました。

実家の手伝い

・・・実家の手伝いは、高校の時も続けていました。練炭の他、武田のプラシーなる飲料水も販売するようになりました。

約300件ほどのお客様のお宅へ米を配達し、引き換えに現金を回収する。その中で、各家庭ごとに感じた事があります。

「配達先の家は、外観から感じる立派さ・広さ・貧富の度合いと、それぞれの家庭の中で感じる人間関係・雰囲気は別である」ということでした。

もう一つ配達する側から感じたことですが、人と人が接するとき「この人は立派な人だな」と感じることがあります。

それは、職業的・金銭的な優位に左右されず、「分け隔てなく接する事のできる人」に魅力を感じました

分け隔てなく接する!この教訓は社会人になってから、職業柄何回も巡ってくる問題の解決(特に債権回収)に、大いに役立ってくれたと思います。

 

社会人生活

写真:名古屋駅前の大名古屋ビルヂング

某都市銀行に入行

・・・某都市銀行の入社試験を福岡で受け、のち入行。鹿児島駅から夜行列車に乗り、22時間かけて名古屋駅に到着しました。

同駅前にそびえる大名古屋ビルヂングが印象的でした。現在、建て替えられ今は周囲を含め高層ビル群の一つになりました。

当時は、屋上のビアガーデンは大勢のお客でにぎわいました。懐かしいです(笑)。

名古屋市内で寮生活を開始、同市内の店舗で初勤務。その後各地を転勤しました。勤務地は愛知県内で出向前まで8回でした。

その間に結婚し子供が二人の四人家族となりました。30代で購入した小敷地、40代で現在地に自宅を建てました。

業務の推移

・・・銀行の最初の配属の支店は名古屋市内でした。仕事は、お札の整理に始まりました。

その後内部事務、受付係、外回り渉外、そして念願の融資業務を担当することとなりました。

業務上の知識を深めるため、宅地建物取引主任者試験・個人情報取扱主任者試験の取得などありました。

職業柄、不動産・建築業者との接点があり、その流れで自宅敷地の購入・自宅の設計を経験に至るまで貴重な体験をしました。

ブログ記事:自宅を設計、5つのプラン。建築基準法他5つのチェック】に記載しました。

融資業務を担当していたころ高度成長期でしたが、やがてバブル崩壊がおとずれました。

そして債権回収のTVドラマさながらの実体験をしました。

債権回収は様々な事情と問題解決に困難な状況・交渉が存在します。

でも人と接する基本は変わりません、どんな相手でも敬意を払い対応する

この心構えは、問題解決に大いに役立ち私を助けてくれたと思っています。

関連会社に出向

・・・50才になる前、某銀行の関連会社に出向になりました。住宅・アパートローンの担保評価・審査のセクションでした、

暫くして、ベテラン社員の退職があり、彼が担当していた相続問題の未解決・イレギュラー案件業務を担当することになりました。

その後のメガBK合併は関連会社にも影響大でした。

特に事務システムの統一には、経験から言えますが合併される方は多大な労力を要しました。

合併される側の事務方(企画・システム・オペレーション)の苦労は、表に出ませんが大変ハードであることを経験しました。

しかし合併時の最優先は人事より、困難であるのが「事務システムの統一」です

これをおろそかにすると、未来永劫システム障害に悩まされ、トップの人事面も巻き添えを食うと思います。

通常の合併は、力関係の順位がはっきりし事務がどちらかに統一されます。

しかし、似通った力関係の三つ以上の合併の場合は事務統一がより困難が予想されます。

定年退職 後

定年後、カルチャーセンター通い

・・・63才で退職~現在(2021年8月、75才)に至る。その間、カルチャーセンター通いをしました。

因みに、カルチャーセンターは、木版画教室・フラメンコギター教室・料理教室・英会話教室を経験しました。

カルチャーセンターで、今も続いているのは木版画教室です(笑)。

国画会(版画部)には、2011年初出品から2021年までお世話になりました。

その間、初出品で幸運にも初受賞し、その後5年連続入選し会友に、2017年には国画賞を受賞し準会員に推挙されました。

カルチャーセンター通いから始めて、日本最大の公募団体の大賞を受ける、夢のような出来事でした。

カルチャーセンターの先生方・仲間たちに大いに感謝し、大変光栄で嬉しい思い出になりました。

現在では水彩協会版画部に所属、同協会の審査員とその他グループ展、企画展への出品活動をしています。

健康面:後期高齢者の仲間入りをさせていただいた現在、病院の診察券も増えてきました。

今では、体力的にもいつまでもこのままの健康が続かないだろうと実感しています。

そこで、自分のスキルでなにがお役にたつのだろうかと顧みました。

趣味の中でも、体力的に続くのは木版画くらいかなと思います。

木版画とブログ

木版画におきまして、これまで身に付けたスキルなどを発信し少しでも皆様のお役に立てばと思っています。

パソコンのスキルアップも兼ねて、現在木版画を中心にブログの発信を続け記事を充実したいとお思っています。

絵画展を中心に作家さんの個展も積極的に取り上げ、ブログを初めて1年半一万ビューを越えたころ、

個展をブログに記録された作家の方々から大変喜ばれるようになり、手ごたえを感じるようになりました。

これからもどうぞ宜しくお願いします。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

番外編1.母をしのんで、2.やなせ たかし「孝行」3.西郷輝彦さん死去。

番外編1、母をしのんでと番外編2、やなせたかしさんの「孝行」と合わせ投稿しました。

番外編(1)、母をしのんで。

入院時の出来事

1906年明治生まれの母は、80歳で他界しました。私が40歳の時でした。

他界する数年ほど前に入院したとの便りが実家から届き、久々に帰郷し病院に見舞いに行きました。

昔の事なので、事前に何の連絡もしていませんでしたが、相部屋の病室に入るなり、

目を閉じ横たわっていた母が私がベットに近づく前に「○○ね」と私の名を呼んだのです。

個室でもないのに、なぜ私が来るのがベットに近づいただけでわかるのだろう。

足音?気配?今でも不思議です。認知症のないすごい母でした。

幼少期の出来事

私が3~4歳の頃、一家は山奥の小屋に住んでいた時の事です。

夜中に寝ているとき、玄関横にある台所の引き戸と柱を括り付けてある防犯用のひもがありました。

その紐を、何者かが包丁のような刃物で外から「ごしごし」と切ろうとしているのです。

弟が生まれる前の私は、母と同じ布団で台所に一番近い場所に寝ていました。

「ごしごし」とする物音に私と母は、一緒に気づきました。私は母にしがみつき、こわいのみでした。

母が大声で「だいかー!(誰だー!)」と、叫んだのです。その声で皆が起き上がりました

「ごしごし」の音がが止みました、何者かが侵入をやめ逃げたのでしょう。

防犯用の紐は、刃物で切れかかっていました。その日から夜は、電気をつけて寝るようになりました。

何が楽しかったのだろう

母は、戦中・戦後をはさみ食料難の中、男6人女1計7人の子供を産んで(長男は病死)育て、

大変な時代を生き抜いて80歳で他界しました。

父は、16歳で親を亡くしてから10年ほど経過し、母と結婚しました。

分家の次男で親からの財産はなく本家の家業(漬物業)の下で働き生活していました。

結婚した時は、母が公務員(専売公社)で生計を支え、共働きのスタートだったそうです。

父と母の蓄えで何とか食糧販売の権利を手に入れ米屋の開業にこぎつけ、大所帯を支えてきました。

母は小さな体で、炊事、洗濯、掃除、餅つき、味噌作り、魚裁き、家族の縫物、諸々をこなしていました。

長患いもせず朝早くから夜遅くまで働く姿を思い出します。

結婚してから、出産・子育て・仕事、そして米屋の開業と日常に追われた生活の中で息つくまもなかったのではないか。

「母は何が楽しかったのだろうか?」私は就職で故郷を旅立つ前に、何気なくその事を聞いてしまいました。

すると母は、「子育てをしている時期が一番楽しかった」と、笑顔で答えました。すごい強い人でした。

この番外編を書いたのは、つい最近高知県に旅行した知人から、やなせたかしの詩集を見せてもらった中で「孝行」の詩に、私が母に言われたことがそのまま書いてあったからです。

それは、「あなたのお産はとても楽だった。小さく生まれてきたので私は苦しくなかった」でした。

この言葉を見つけました。次の番外編(2)、でやなせたかしさんの詩を掲載します。

番外編(2)、やなせ たかし 「孝行」。

・・・1919年高知県出身。漫画家・詩人・絵本作家。

詩「孝行」

母親は僕に何度も言った あなたのお産はとても楽だった

あなたは両手の手のひらにのるほど 小さくうまれたので

私は少しも苦しくなかった 苦しくなかった

今のところ僕の孝行は これしかない

もっと孝行して 喜ばせたかった

やなせたかし:2013年生まれ、94歳で他界。以上、番外編(2)までご覧いただき有り難うございました。

番外編(3)、西郷輝彦さん死去。

・・・残念ながら2022年2月20日、彼の訃報がTV他多くのメディアから流れてきました。(下記2月22日付、中日新聞記事)。

ヒット曲「星のフラメンコ」や時代劇の遠山金四郎役などで親しまれた歌手で俳優の西郷輝彦(本名今川盛揮・いまがわせいき)さんが20日午前9時41分、前立腺がんのため東京都の病院で死去しました。

75才。鹿児島市出身、葬儀は近親者で行う。1964年、17才の時に「君だけを」でデビュー。

「17歳のこの胸に」「星娘」など青春歌謡が相次いでヒットしました。

橋幸夫さんや舟木一夫と共に「ご三家」と呼ばれ、NHK紅白歌合戦に10年連続で出場しました。

73年~77年に主演したドラマ「どてらい男(やつ)」がヒットして俳優としても活躍。

「江戸を切る」の遠山金四郎役や、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などの時代劇で人気を博しました。

舞台では森重久弥さんの「屋根の上のヴァイオリン弾き」などに出演、90年には菊田一夫演劇賞を受賞しました。

72年に歌手の辺見マリさんと結婚。その後、離婚して別の女性と再婚しました。

長女はタレントの辺見えみりさん。2011年に前立腺がんの手術を受け、17年に再発したことを公表。

2021年4月にはオーストラリアに渡り、がんの先端治療を受けていました。

今池のジャズ喫茶楽屋口でスカウト。

・・・西郷輝彦さんはデビュー前、名古屋・今池にあった「グランドキャニオン」でバンドボーイをしていました。

それが大手芸能プロダクション「サンミュージックプロダクショングループ」創業者で元会長の故・相沢秀禎さんの目に留まり「ユーはオーラがある」と店の楽屋口でスカウトされ、歌手デビューにつながったという。

1998年に名古屋・伏見の御園座で主演した舞台「見えない橋」の公園前には、物語の舞台となった岐阜県根尾村(現在の本巣市)を訪れて記念植樹しました。

2015年には中日劇場での舞台「三匹のおっさん」で松平健さんや中村梅雀さんと共演しました。

西郷輝彦さんの訃報、残念です。再発率は少ないガンだけに残念です。

もっと見たかった聞きたかった歌手俳優でした。ご冥福を祈ります(合掌)。

番外編(3)まで読んでいただき、重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。