アート

徳川美術館と企画展・尾張徳川家との関係及び蓬左文庫、その他

 

・・・紅葉の季節、徳川美術館での企画展(刀剣)、そして隣接の蓬左文庫との企画展(鷹狩)を鑑賞しました。

豊かな自然の中に美術館・文庫を有する広大な敷地、歴史ある所蔵品。

一年中楽しめる徳川園など豊かな自然と歴史に囲まれた癒しの空間としての情報がお役に立てばと思い記事にしました。

徳川美術館

写真:広い敷地と樹々に囲まれた、徳川美術館正面。

特徴

・・・名古屋市東区にある「徳川美術館」は、

美術館と公園(徳川園)が一体となった、ゆったりとした造りの美術館です。

館内は、各テーマに分けられた9つの展示室があり、

名品コレクション展示室をはじめ、映像システム、複製(レプリカ)を中心に鑑賞できる展示室、

建物が登録文化財となっている企画展示室など、

質量ともにそろった美術品の数々が所蔵されています。

また、徳川家康の遺品として尾張徳川家に贈られた国宝の短刀「庖丁正宗」(ほうちょうまさむね)や、

徳川家ゆかりの逸品が数多く収蔵されているのも特徴です。

施設情報

  • 所在地:名古屋市東区徳川町1017。
  • アクセス:「森下駅」徒歩7分。
  • 営業時間:AM10:00~PM5:00。
  • 休日:月曜日、月曜日が祝日の場合は直後の平日。
  • 駐車場:17台、AM9:45~PM5:30。
  • 公式サイト:https://www.tokugawa-art-museum.jp/

設立・開館

・・・徳川美術館は、江戸時代の大名家・尾張徳川家に伝えられた重宝、いわゆる「大名道具」を収蔵る美術館です。

徳川義親によって昭和6年(1931)に設立された公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館で、昭和10年に開館しました。

収蔵品概要

・・・61万石を領した大名尾張徳川家に伝えられた重宝の他、

明治維新後は徳川宗家(将軍家)や紀伊徳川家など大名家の売り立て品を購入、

また岡谷家や高松家など多くの篤志家からの寄贈品を納めてさらに夫充実し、

戦中戦後の災難混乱を免れて現在に至っています。

昭和62年(1987)秋には開館50周年を記念して実施された増改築工事が完成、名品コレクション展示室が加わりました。

収蔵品は徳川家康の遺品を含め、初代徳川義直(家康9男)以降の尾張徳川家の歴代党首やその家族らの遺愛品を中心に、総数1万件余りに及びます。

国宝「源氏物語絵巻」を始め国宝9件、重要文化財59件、

重要美術品46件、と種類の多さ質・保存状態の良さを誇っています。

尾張徳川家の記録や文書類を収める研究機関・徳川林政史研究所を姉妹機関に持つ美術館です。(引用、徳川美術館)。

収蔵品(国宝)他

日本刀の所蔵数

刀・槍・長刀・小刀・など1000振程所蔵は、日本最大級の数を誇る。

徳川美術館の所蔵する日本刀は、ほとんどが尾張徳川家からの寄贈によるコレクション。

「刀は武士の」と言う言葉が示すように、日本刀は武士にとって非常に大きな価値を持つ道具。

時には帯同している日本刀を見るだけで武士としての「格」が分かったとも言われています。

そのため多くの大名家では、日本刀を贈答品として用いていたのです。

また名家である程、その権威を示すために多くの日本刀を所持している必要がありました。

徳川御三家の一つであった尾張徳川家では、お抱えの刀鍛冶が作った多くの日本刀を寄贈することが出来たのです。

そのため、美術館の設立時に1000振りを超える日本刀を寄贈することが出来たのです。

また徳川美術館の収蔵品は、尾張徳川家の当主が代々集めてきた銘品の集大成であるため、

様々な種類の日本刀が勢ぞろいしています。

刃長2mを超える「大太刀」から、刃長10cm程の「小刀」まで、

幅広い大きさの日本刀を鑑賞することが出来ます。(引用:徳川美術館)。

刀剣

<短刀>
「国宝」 銘 吉光、*名物 後藤藤四郎・「国宝」無名政宗、名物 包丁政宗。
*名物 後藤藤四郎

現在の鯰尾十四郎(なまずおとうしろう)は、脇差の形状をしていますが、もともとは薙刀でした。

薙刀の刃の部分を切り詰めて脇差に作り変えら、日本刀の先端部分である「ふくら」の形が鯰の尾に似ていたため、

鯰尾十四郎と呼ばれるようになったのです。(引用:徳川美術館)。

<刀>
「国宝」金象嵌銘 政宗磨上 本阿弥(花押)名物池田政宗。
<太刀>
「国宝」銘 正垣・「国宝」銘 国行・「国宝」銘 国宗・「国宝」銘 来孫太郎(花押)正応五年壬辰八月十三日・
「国宝」銘 光忠・「国宝」銘 長光名物 津田遠江長光。
<脇指>

「重要文化財」無銘 貞宗、*名物 物吉貞宗

*名物 物吉貞宗(ものよしさだむね)

徳川家康がこの日本刀を差して出陣した戦いでは一度も負けなっ方ことに由来します。

縁起が良いいう意味の「物吉」と、刀鍛冶の名前「貞宗」を組み合わせた名前。

この日本刀は、家康の形見分けとして義直(九男・初代尾張藩主)に与えられたのでした。

(引用:徳川美術館)。

 

「国宝」源氏物語絵巻

平安時代(12世紀)源氏物語絵巻、尾張徳川家伝来の三巻分を所蔵されています。

昭和7年(1932)に保存のため43面の額面装とされていた「源氏物語絵巻」は、

さらに保存のため平成28年(2016)から令和2年(2020)にかけて15巻の巻子装に改装されました。

「国宝」千代姫婚礼調度

<初音の調度>千代姫婚礼の背景

千代姫(3歳)は、将軍家と御三家の架け橋となった最初の人まさに先例となった姫です。

生まれながらの将軍、徳川家光が、初め男色だった話は有名。

30過ぎても世継ぎの生まれない状況を心配した乳母・春日局(かすがのつぼね)の側室を送り込み作戦により、

ようやく、待望の第1子として生まれたのが、この千代姫です。

生まれは寛永十四年(1637年)閏3月5日、戒名は霊仙院(れいせんいん)。

待ちに待った将軍家の姫ですから、その婚礼の仕度は、生まれたその年から早くも注文され、

その翌年、尾張徳川家の初代・徳川義直の長男・光友(みつとも)との縁組が決まります。

この光友は、家光の従兄弟にあたり、健康にも優れ、武道をこなしながらも書画などもたしなむ評判の男子で、

まさに理想的、しかも千代姫より12歳も年上ですから、幼い娘を嫁がす親の方も安心です。

『金城温古録』によれば「天下にも替え難き御大切なる姫君様」ですが、たっての「尾張殿御所望」により・・・と、

この縁談に乗り気だったのは尾張の方だったように書かれています。

が、ひょっとしたら、これは将軍家に気をつかっての書き込みなのかもしれません。

確かに、将軍の実子を嫁に取る事で、大名としてのランクが上がるというメリットがありますが、

この時点で、未だ世継ぎのいない家光、どちらかと言えば、将軍家のメリットのほうが、はるかに大きい。

なんせ、この縁組が決まった時点で、家光は35歳、家光は、子供の頃から何度も病気にかかり、

決して丈夫とは言えない体質だったわけですから、このまま世継ぎが生まれない可能性も大いにあるわけです。

そうなると、当然、御三家から誰かを養子に迎えて、次期将軍にとなるわけです。

この時点で、優秀かつ理想的と噂される光友が、その候補に上がって来るのは明白。

だったら、自らの娘を嫁に出して、その血筋の保持をする事が重要ですし、

さらに、当時の家光は、叔父に当たる義直としっくりとはいっておらず

一時は、尾張謀反の噂が浮上するほど、不穏な空気が漂っていたのです。

当時は未だ、幕府が盤石とは言い難い時期でした。

ここで、御三家筆頭の尾張との関係を良き物にする事で、より強固な幕藩体制の確立になる事が得策だったのです

こうして寛永十六年(1639年)9月21日、わずか3歳で千代姫は尾張に嫁ぎます。

と言っても、さすがに、結婚のなんたるかもわからない年齢ですから、

祝言そのものは、輿入れから8年後の、千代姫・11歳の時に行われています。

初音の調度内容

初音蒔絵具桶他「蒔絵」小角赤手箱・昆布箱、

渡金箱・歯黒箱・小櫛箱・旅櫛箱・乱箱、

沈箱・薫物台・香盆・香具箱・短冊箱、

色紙箱・文箱・料紙箱・見台・沈香炉、他。

その他所蔵品

写真:美術館エントランス正面の甲冑。

 

甲冑・刀装具(武具・金工)、唐物漆器(漆工)、重文白天目・冬枯(陶器)、経巻・色紙・掛物(書跡)、

能面・能衣装(能・狂言)、武家装束(装束・衣服)、墨・硯(文房具)、

能楽・雅楽・琉球楽器(楽器)、千利休作「涙の茶杓」(工芸)、

福君様・短姫様の雛道具(雛人形・雛道具)。(引用、おもな収蔵品)。

徳川美術館・蓬左文庫(企画展)

「鷹狩(たかがり)」

期間(2022/11/12~12/15)

写真:雪中鷹捉搦鶴図

 

・・・飼い馴らした鷹を使って獲物を捕らえる鷹狩は、日本では古代から行われていました。

鷹狩道具をはじめ、狩りに関わる人々や場にも焦点を当てつつ、鷹狩の世界が展示されています。

鷹狩の特徴

鷹狩は鷹を刈るのではなく、鷹で狩る点においても他の「狩り」とは異なる側面を持ちます。

鷹や捕えた鳥は献上・拝領の対象となるなど儀礼的な側面がある他、

鷹狩を行うための鷹を育てる技術や鷹場(たかば)などの支配も欠かせない要素のひとつです。(引用:鷹狩)。

警戒心の強い鷹を飼いならすこは一苦労ですが、やっと信頼関係を築いた後、もう一つありました。

鷹狩で私が最も印象的な動作だったのは、獲物を捕らえた鷹に、「鷹匠がすぐに手持ちの肉を与え、その隙に鷹の獲物を確保する」ことでした。

この動作を細心の注意を払いスムーズに実行する、これこそが鷹匠が鷹との信頼関係を保つポイントであると確信しました。

 

秋季特別展「名物」:茶の湯道具・刀剣

期間(2022/9/17~11/6)

「名物」の歴史

室町時代から、茶の湯道具や刀剣などを主として、名の知られた優品は「名物」と呼ばれるようになりました。

名物の受王権にはそのものの魅力や世間で有名にであることのみならず、豊臣秀吉などの戦国武将や、

千利休などの茶人といった歴史的人物によって有されていたことー由緒ーに重きが置かれてきました。

江戸時代になると、名物の多くは各大名によって収蔵され、

また重大な局面での贈答や茶会で用いられることで、大名家の家格をも象徴するようになります。

更に「元貨名物記」や「享保名物帳」などの書物によって、名物が一覧に集約・刊行されると、

名物は不動の宝物のごとく扱われるようにもなりました。(引用:徳川美術館)

茶の湯道具

<抹茶いれ>

写真:九十九髪茄子<現在*静嘉堂文庫美術館蔵>。

 

九十九髪茄子

当初は足利義満が所有、その後足利義政により山名是豊に与えられた。

その後伊佐宋雲の手に渡り朝倉教景が五百貫で購入したとされている。

後に宗滴から越前小袖屋に質入れされた。1558年に松永久秀が一千貫にて入手する。

その後、1568年、足利義昭を奉じて上洛したへの降伏のしるしとして、九十九髪茄子に吉光を添えて献上した。

織田信長没後、本能寺の焼け跡から拾い出された九十九髪茄子は豊臣秀吉に献上された。

しかし、秀吉は焼けて釉薬の輝きが失われた九十九髪茄子を好まず、有馬則頼に与えた。

有馬則頼の没後、九十九髪茄子は大阪城に戻されるが、1615年大阪城落城の際に再度罹災する

徳川家康の命により藤重藤元・藤巌父子が大坂城焼け跡から探し出し、破片を漆で継ぎ合わせて修復を行った。

家康は修復の出来映えの褒美として藤元に九十九髪茄子を与えた

以後、藤重家に伝来したが、1876年(明治9年)に岩崎弥之助に譲られた。(引用)。

<ご参考>東京丸の内にある*静嘉堂文庫美術館。

*所蔵品*国宝《曜変天目(稲葉天目)》はじめ、国宝7点。茶道具、琳派、中国書画、刀剣などを所蔵。

 

<茶杓>
写真:千利休竹茶杓 銘泪 大名物。古田織部・徳川家康他所持、桃山時代 16世紀。  <徳川美術館蔵>

 

<茶碗>
写真:大井戸茶碗(龍光院井戸)名物。伝千利休・津田宗及所持、朝鮮王朝時代16世紀。  <大徳寺龍光院蔵>

 

詳細:「徳川美術館、主な収蔵品(工芸)」をご参照ください。

刀剣

写真:重要文化財、「脇差」 無名貞宗 名物物吉貞義 及び付属品<徳川美術館蔵>。

 

徳川家康の遺品として尾張徳川家に贈られた国宝の短刀「庖丁正宗」(ほうちょうまさむね)が有名です。

今回展示は、重要文化財「脇指」及びその付属品・「刀」・「太刀」など名物刀剣23振が展示されました。

写真:重要文化財「刀」金象嵌銘 義弘本阿(花押)本多美濃守所持、名物 桑名江。本多忠政(伊勢桑名藩2代)他所持。      南北朝時代14世紀<京都国立博物館蔵>。

 

写真:重要文化財「太刀」号獅子王 伝源頼政・徳川家康・土岐頼次ほか所持、平安時代    12世紀<東京国立博物館蔵>。

 

詳細:「徳川美術館、主な収蔵品(刀剣)」をご参照ください。

オンラインチケット

「企画展」:鷹狩 2022/11/12~12/15

「日付限定」本格歴史体験講座:復活・徳川家康香りのレシピ

  • 日付:2022/10/14(金),2022/11/12(土),2023/1/15(日)。
  • 時間:13時30分~15時30分。

 

尾張徳川家との関係

写真:徳川義崇、先代投手の父善宜さんの死去に伴い、2005年に尾張徳川家22代当主として徳川美術館館長に就任した。    公益法人徳川黎明会(本部・東京都豊島区)会長。(2022/12/3日、中日新聞)。

 

・・・今年、愛知県政150年周年に当たり、尾張徳川家22代当主徳川義崇氏へのインタビュー記事がありました。

美術館に直球の話題ではありませんが、尾張徳川家からみた、

現在の尾張との関係を知るうえで興味深いものがあり、その記事を取り上げました。

尾張徳川家の存在

・・・明治以降、曽祖父の義親から四代とも東京で暮らしている。元家臣の家系の人とのつながりはあまりないが、

古くから商いをしている方々からは今でも「名古屋があるのは徳川さんのおかげ」と感謝される。

「清州越し」で名古屋城築城とともに、商人を守る街づくりをした。

それが基礎となって今日の名古屋のものづくりの産業、文化がはぐくまれたのだ、と。

少なくない人から聞くので、やはり一定数は感じていらっしゃるのだろう。

自分が何かしたのではないが、自分が思う以上に、

自分のルーツである国元を大切に思ってくれる人たちが、愛知にいると感じる。

三河地方への思い

・・・徳川家康が誕生した三河地方のへの思いについては、

あまり尾張、三河という意識はしたことはないけれど、

岡崎市にもゆかりのお寺がいくつもあり、時々伺う。

現地の方々と話をすると、尾張ほど「徳川家のおかげ」という雰囲気はないけれど、

三英傑の一人を生んだという誇りを強く感じる。

日本の歴史を変えた人を出した土地という自負があるのでは。

この150年尾張徳川家は県とどう関わったか。尾張徳川家は直接の政治的な役割はなくなった。

ただ、名古屋には何かあるごとに出向いて来た。

歴史や生物学の研究者だった義親は、名古屋市長選にも立候補したことがある。

どんな思いだったかは残念ながら分からないが、周囲は驚いたようだ。

徳川美術館の設立

・・・大正から昭和初期、天災や戦火で元大名家の多くは財産を手放していた。

義親は尾張徳川家が保有する家康の遺品など貴重な品々を散逸させないようにと財団を設立

徳川美術館を造り、国宝の源氏物語などを保存、公開した。

館長は祖父や父が務め、2005年からは私が引き継いでいる。

大名文化を後世へ橋渡

大名文化がどういうものだったのかを後世に残すことが、地域に対する役目だと思っている。

尾張と三河への期待と思い

・・・みそ文化は尾張・名古屋が有名だけど、八丁みそは、三河の岡崎が発祥だ。

食文化をはじめ境界はあってないようなもの。

かっては藩が分かれていた尾張と三河が、

良い意味で競い合い、切磋琢磨し合っていけるといいと思う。

そして一緒に新しいものが生み出せたらいいなと。

私は生まれも育ちも東京だが、愛知の人とのつながりは、父や祖父が大切にしてきたもの。

私も子や孫に伝えていきたい。(2022/12/3日、中日新聞)。

 

蓬左文庫

写真:蓬左文庫。

蓬左とは

・・・江戸時代に使用された名古屋の別称です。古代以来の歴史を有し、全国にその名を知られた熱田の宮は、

中国の伝説にいう仙人の住む蓬莱山にあたるという言い伝えがあり、

蓬莱の宮」、「蓬が島」などと呼ばれていました。

このため、「蓬莱の宮」の左方に開けた信仰の城下町である名古屋は、「蓬左」、名古屋城は「蓬左城」と呼ばれました。

つまり、蓬左文庫とは、「名古屋文庫」という意味になります。

蓬左文庫の蔵書内容

・・・前述の「蓬左文庫」は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫です。

現在の蔵書数は、約12万点。蔵書内容の豊富さが蓬左文庫の特徴となっています。

さらに、書籍だけではなく、尾張徳川家に伝えられた2千枚をこえる絵図も所蔵しており、

名古屋の城下図から世界図におよぶ古地図や、屋敷図・庭園図など、多彩な内容の絵図が含まれています。

蔵書の閲覧のほかに、徳川美術館の大名道具と合わせて、武家の学問と教養など、

近世武家文化をわかりやすく紹介する展示や、徳川美術館・徳川園と連携した講演会などを企画開催します。

蓬左文庫創設の歴史

・・・蓬左文庫にとって、尾張藩の書物倉である「御文庫」の創設が、その歴史の始まりといえます。

徳川家康の遺品

元和2年(1616)、徳川家康の死去により、

その遺品の多くが、尾張、紀伊、水戸の御三家に分譲されました。

このうち、のちに駿河御譲本と呼ばれる家康の蔵書については、

3千冊が尾張家に譲られ、これを契機に、尾張藩の御文庫は形成されました。

御文庫の蔵書

この後、御文庫の蔵書は、歴代藩主の書物収集を中心に、

その蔵書を拡大し、幕末期の蔵書数は、5万点と推定されます。

江戸時代を通じ、尾張藩の御文庫は、質量ともに我が国屈指の大名文庫でした。

混乱期の流失

明治維新後の混乱期には、払い出しなどにより蔵書の約三分の一が流出しています。

残った御文庫の蔵書に、「御記録所」をはじめとする尾張藩の役所、別邸の蔵書の一部が加わり、

尾張徳川家の蔵書として東京と名古屋の屋敷に保管されることになりました。

財団法人「蓬左文庫」の設立

尾張徳川家が、財団法人の設立を構想し始めるのは、

明治末から大正初期あたりですが、「蓬左文庫」の命名もこの頃のことです。

19代当主徳川義親氏は、江戸時代以来の同家の蔵書にたいし、

蓬左城(=名古屋城)内にあった書物を伝える文庫という意味を込めて「蓬左文庫」と名付けました。

東京目白の邸内に開館

昭和10年、名古屋大曽根邸内に徳川美術館が開館したのと同時に、

蓬左文庫は、東京目白の邸内に開館しました。

明治維新から蓬左文庫の開館までにも旧尾張藩士の旧蔵書をはじめ、多くの資料が蔵書に加えられています。

大曽根邸内の現在地で一般公開

公開文庫の道を歩み始めた蓬左文庫ですが、

戦争により、10年足らずで、休館を余儀なくされます。

本格的にその歩みを再開したのは、昭和25年の名古屋市移管後のことです。

翌年から、旧尾張徳川家大曽根邸内の現在地において、一般公開が、始まりました。

以後、名古屋市教育委員会の管轄下、図書館の分館をへて、名古屋市博物館開館にともない、

昭和53年より、その分館にとなっています(ネット引用・蓬左文庫)。

蓬左文庫展示室の案内

・・・蓬左文庫の展示室は、徳川美術館と館内でつながっており、

共通観覧の場合は、徳川美術館正面玄関にて共通観覧券を購入します。

年2回、徳川美術館と共同で開催する特別展は共通観覧券のみです。

よって蓬左文庫から展示室への入室はできません。

蓬左文庫・徳川美術館、共通観覧料

一版 高校・大学生 小・中学生
個人 1400円 700円 500円
団体(20名様以上)) 1200円 600円 400円

 

(参考)徳川美術館、企画展観覧料

一版 高校・大学生 小・中学生
個人 1200円 700円 500円
前売り券 1000円 600円 400円

*参考資料:徳川美術館公式オンラインチケット。

蓬左文庫、観覧料

一版 高校・大学生 小・中学生
個人 400円 300円 200円
団体(20名様以上)) 350円 250円 400円

*毎週土曜日は高校生以下入場料無料です。

蓬左文庫、利用案内

・・・文庫資料の閲覧は、原則として予約制で、事前の予約資料の状態を確認のうえ対応します。

 予約内容

  1. お名前・電話番号・お住まいの市町村名
  2. ご希望日時(午前または午後)
  3. ご来館人数
  4. ご利用希望資料請求記号および資料名

予約先

  • 電子メールアドレス:info@housa.city.nagoya.jp
  • 電話番号:052-935-2173
  • ファックス番号:052-935-2174

 予約時間

午前9時30分から正午/午後1時から5時(休館日を除く)

その他

愛知の民話を訪ねて

・・・岡崎城及び徳川家康に関する民話が、記事になっていましたので紹介します。

写真:神社本殿にの天井にある木彫りの竜。

城を守る竜

むかし、岡崎城の辺りは、木が生い茂り、山全体が霧で覆われていた。

木は切られ、山は削られ、古井戸が埋めかけられたその時、雲が急に曇り、大雨が降り出した。

石垣は崩れ、作りかけの城が傾くほどの大嵐が起きた。そこに、一人の乙女が現れた。

「私はこの山の古井戸にすむ竜です。立派な城を作りたければ、井戸は壊さないでください」と告げて、姿を消した。

その後、立派な城が完成し、お祝をしていると、井戸の水が勢いよく噴き出し、七色の虹がかかり、竜が姿を現した。

「これは縁起がいい」「竜が城を守ってくれるぞ」と竜を見た人々は大喜び。

雲に乗った竜は空を飛び回り、再び井戸の中へ姿を消した。

1542年12月26日、岡崎城で、一人の男児が産声を上げた。

後に天下を統一し、太平の世を築いた徳川家康が生まれた子の城は、かって、竜が宿る城として「龍ヶ城」と呼ばれていた。

大河ドラマ「どうする家康」の舞台の一つとなり、白がある岡崎公園は、連日多くの観光客で賑わっている。

城の隣にある龍城神社、家康公と本本多忠勝公を祭り、境内には、木彫りの竜や石像、昇竜伝説が残る井戸「龍の井」など竜にまつわる文化財が多く残る。

禰宜の畔柳吉生さん(49)は「竜神様が昔、この地域を守ってくれた」と明かす。

室町時代に三河国守護代の西郷つぎ頼が、岡崎城を築城した際に、白の井戸から竜が現れたことから、天守には竜神を祭り、城を「龍ヶ城」、井戸を「龍の井」と名付けたという。

その後も、家康がこの城で生まれた時や敵が城を攻めようとした時などにも天に竜が現れ、私利を守ったといわれている。

畔柳さんは「竜神の生まれ変わりともいわれる家康公が平和な世の中を築いてくれた。

きっと今も天から見守ってくださっているに違いない」と語った。(2023年4月16日、中日新聞)。

写真:(左)龍の井を紹介する禰宜の畔柳さん、(右)岡崎城と龍城神社。

 

名品コレクション展示室

・・・名品コレクション展示室では、大名の生活と文化を6つのテーマに分け、約1か月ごとに展示作品を入れ替えます。

第1展示室

<武家のシンボル>ー武具・刀剣ー

第2展示室

<大名の数寄>ー茶の湯ー

第3展示室

<大名の室礼>ー書院飾りー

第4展示室

<武家の式楽>ー能ー

第5展示室

<大名の雅び>ー奥道具ー

第6展示室

<王朝の花>ー源氏物語絵巻ー

 

徳川美術館と蓬左文庫のまとめ

・・・徳川美術館・蓬左文庫は、尾張徳川家に伝えられた重宝、いわゆる「大名道具」などを収蔵する貴重な文化施設です。

その所蔵品、展示品の一つ一つに歴史の重みを感じます。

加えて、一年中楽しめる徳川園など豊かな自然に囲まれた癒しの空間が身近に存在するのはありがたい。

都心ながら豊かな自然の中に四季を体験できる貴重な文化施設と思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。