アート

豊田市美術館で、お得な年間パスポートの購入方法。パスポートで高橋節郎館を拝観。時期展示会情報。

 

Contents
  1. 豊田市美術館で、お得な年間パスポートの購入方法と手順
  2. 年間パスポート、お得な理由・情報。
  3. 時期展示会情報
  4. 交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニーのまとめ。
  5. 前回、展示会:Sunset/Sunrise展、(2022/2/15~5/8) 。済。
  6. 展示会情報や:Sunset/Sunrise展、まとめ
  7. モンドリアン展(2021/7/10~9/20) 済。
  8. 高橋節郎館(豊田市美術館隣接)。
  9. 「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」(10/23~2022/1/23) 済。
  10. ホー・ツーニェン展「百鬼夜行」まとめ

豊田市美術館で、お得な年間パスポートの購入方法と手順

この際、年間パスポートを購入しようと思いました。 ちなみに年間パスポート入館料は三千円です。

同美術館の年間パスポートは、コスパ的にお得? なのだろうか、購入方法は? 初めて年間パスポートを購入しました。

そのお得な購入方法と手順、そして理由を記事にしました。 参考になれば幸いです。

入館前に年間パスポートを購入する

  1. 入館チケットを購入する前に、年間パスポートの申し込みカウンターに行く。
  2. カウンターで渡された申込書に、住所・名前・生年月日・TELナンバーなどを記入し申し込みます。
  3. 係員のチェックの後、その場で渡される名刺大のプラスチックのパスポートに自分の名前をサインします。
  4. 年間パスポート入館料3000円を払い発行手続き完了! パスポートとパス受取書及び高橋節郎館の入館券をわたされます。

つまり、入館料を支払う前に、年間パスポートを購入します。

今回そのパスポートで入館すれば、一年以内にもう一回入館することで、コスト的にも十分満足します。

年間パスポート、お得な理由・情報。

豊田市内文化施設の観覧料値引き、同市内及び名古屋市内のレストランの食事代金割引があります。

 

豊田市美術館。

  • 無料観覧:近年、美術館入館料は1400~1600円程度です。 年間パスポートは3000円であり、年間2~3回拝観すればコスパ的に十分満足できる値段です。
  • 同伴割引:一緒に来館した方の入館料を団体料金に割引(人数制限なし)
  • レストラン味是遊:小菓子をプレゼント。
  • ミュージアムショップ:1000円以上お買い上げにプチプレゼント。

豊田市内文化施設、入館料100円引き。

  • 豊田市郷土資料館:豊田市陣中町1-21。
  • 豊田市民芸館:豊田市平戸橋町浪岩86-100。

愛知県内美術館、入館料を団体料金に割引。

  • 岡崎市美術博物館:岡崎市高降寺町峠1。
  • おかざき世界子ども美術博物館:岡崎市岡町字島居戸1-1。
  • 桑山美術館:名古屋市昭和区山中町2-21。
  • 徳川美術館:名古屋市東区徳川町1017。
  • 古川美術館:名古屋市千種区池下町2-50。
  • ヤマザキマザック美術館:名古屋市東区葵1-19-30。

豊田市内・名古屋市内のレストランの食事割引協力店舗。

  • 仏蘭西料理壺中店:名古屋市東区葵1丁目19番30号。
  • 猿投温泉:豊田市加納町馬道通21。
  • ホテルトヨタキャッスル:豊田市喜多町2丁目160。
  • 鉄トヨタホテル:戸谷田氏喜多町1-140。
  • ホテルフォレスタ:豊田市岩倉町一本松1番地1。
  • アットインホテル豊田市駅:豊田市喜多町2-97。

ご参考:Toyota Municipal Museum of Art 豊田市美術館

 

時期展示会情報

・・・下記二つの展示が開催予定です。

徳冨満、テーブルの上の宇宙(2023.02.25~2023.5.21)

ねこのほそ道、(2023.02.25~2023.5.21)

 

前回展示情報:ゲルハルト・リヒター展、済

2022/10/15(土)~2023/1/29(日)

巡回情報

東京国立近代美術館 2022/6/7(火)~10/2(日)。

 

前々回展示情報:機能と装飾のポリフォニー(2022/6/7~9/4) 済。

写真(6/7日):豊田市美術館入口。

交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー。

・・・1910~30年代のモダンなデザインの家具や服などを集めた企画展です。

本日(6/7日)は、運よくボランティア活動による「ハイライトツアー」にも参加できました。

「ハイライトツアー」の裏話などの内容も記事に挿入しますので、鑑賞の一助となれば幸いです。

又、展示会説明書は、必要性は理解していますが、長文を立ち止まって見るのは、体力的・時間的にロスが予想されます。

各年代ごとのチャプターは、本記事に極力取り上げて記事にしますので、ご参照いただき、鑑賞のお役に立てば幸いです。

新聞など美術館広報が発信した記事。

 

写真:「ブックエンド」、マリアンネ・ブラント作(豊田市美術館、広報)。

 

大衆消費社会が生んだ20世紀全般の日本や西欧では、機能的なデザインが求められた一方で、人々の欲望をかきたてる装飾性も注目されました。

本展では家具、食器、服飾、室内装飾プラン、絵画など約400点を展示し、ジャンルを超えて影響し合ったデザインの広がりを紹介しています。

機能美とシンプルな装飾を兼ね備えた20世紀初頭のデザインから、第一次世界大戦を経て女性作家の活躍が増えました。

世界中に広がっていったころのデザインまでの変遷を紹介しています。(2022/5/23~6/7日、中日新聞要約)。

写真:今回展示「交換するモダン 機能と装飾のポリフォニー」のパンフレット。

 

入口説明書、本展示会趣旨。

先ず入口の説明書が長文です。当記事を事前に一読され、鑑賞がスムーズなスタートとなると幸いです。

・・・1910年代から30年代は西欧を中心に日本を含む各地で、様々な「モダン」の形が現れた時代でした。

機能主義に基づく「モダニズム」は、いまだに当時の中心的な動向とみなされていますが、

一方で、大衆消費社会が進展したこの時代は、常に新しくあるために装飾することに価値が置かれた、儚き「モダニティ」の時代でもありました。

そしてこの対立的に捉えられてきた二つの「モダン」は、実際にはいくつもの「モダン」を内に含み、それらは複雑に関係しながら濃密な時代を作り上げていました。

当時の作家たちは、時間差なく情報を共有し、国やジャンルを超えて同期し合い、その範囲は、絵画、彫刻から、家具、食器、洋服、

さらにそれらを収める建築や都市まで、いわば、私たちの生活空間、身体活動全体に及んでいます。

ウイーン工房は、フランスのファッションデザイナー、ポール・ポワレと刺激し合い、

一方で、建築家で室内装飾家のロペール・マレ=ステヴァンなど同国のモダニストにも影響を与えました。

その生活全般への眼差しはまた、日本で新しい生活様式を模索した森谷延雄や斎藤佳三らにも共通されるものです。

同時主義絵画で知られるソニア・ドローネはファッションの仕事に専念し、

建築、家具デザインを手がけたルネ・エルブストらモダニストは都市を彩るショーウインドーデザインに大きな関心を払いました。

そしてドイツのバウハウスでは女性作家が織物に新たな光を当て、

また同校を離れた作家たちが、ブルク・ギービッヒェンシュタイン美術工業学校を舞台に応用芸術教育に取り組むことになります。

1914年に勃発した人類史上初の世界大戦が象徴するように、この時代の最大の出来事は、世界が一気に同期したという事でした。

その急速に変化する社会の中で、作家たちが時の交わり、ポリフォニーのように共鳴しながら探求したいくつもの「モダン」の形を紹介します。

最後となりましたが、本展示会の開催に当たり、貴重な展示品を快くご出品いただいた美術館、ご所蔵者の皆様、

ならびに調査研究に多大なご協力を賜りました関係者の皆様、ご支援、ご協力をいただきました関係各位に心より御礼申し上げます。 主宰者。

チャプター 1、(1900~1913)。

1Fは、チャプター1~4でモダンの出来事を年代ごとに区切り展示しています。

写真:写真:分野を超えて影響し合ったモダンデザインの椅子や洋服が並ぶ企画展。

 

・・・起点は1900年代半ば、ドイツの応用芸術ウイーン工房である。

ドイツではドレスデンやミュンヘンなど各地に工房が立ち、大衆社会に相応しい日用品や工業製品が模索された。

ブルーノ・パウルによる企画家具はその代表である。

1903年設立のウイーン工房は、総合芸術を揚げて生活の美化をうたった。

高尚な理想はしかし、1907年を境により現実社会に即した商品の製造販売へと移行していく。

こうした両国を横目に、芸術国家フランスでは、装飾・応用芸術の刷新が急がれた。

ドイツの工房を手本に、室内家具調度をトータルでデザインすることへの関心が高まり、その際にウイーン工房の様式が積極的に参考にされた。

いわば生活の仕方自体が、各国共通の課題となったのである。

それは当然装飾にも及んだ。現代生活に相応しい服を作ること。

ポール・ポワレはコルセットから女性を解放し、ウイーン工房でも服飾が制作販売のメインを占めるようになる。

そしてポワレとウイーン工房が影響し合う。場所やジャンルを超えて、同期し影響し合う時代が始まったのである。

 

チャプター 2、(1914~1918)。

・・・1914年に勃発した第一次世界大戦は、私達の認識を徹底的に変革させる出来事だった。

この人類史上初の世界大戦により、私たちは世界が一気に同期することを経験し、

またその世界が決して安定し、固定化しないことを知ったのである。

大戦の最中に、古い因習や固定観念を、覆すダダイズムの運動がおこり、ロシア・アヴァンギャルドが芸術による社会変革を掲げたのは必然だった。

此の時代は、来る大戦後の社会の胎動期だったという事もできる。

戦地に赴いた男性たちに代わり、女性が社会の主要な活動を担うようになったのは重大な変化だった。

ウイーン工房では美術工芸学校でヨーゼフ・ホフマンに学んだ女子学生たちがデザインを手掛けるようになり、後の工房を方向づけていくことになる。

戦後フランスでファッションが大きく展開する事になるのも、このことと無関係ではない。

一方で、1919年のドイツでヴァルター・グロピウスが新しい社会の建設を掲げてバウハウスを設立したのも、大戦による破壊の経験があっての事だった。

 

チャプター 3、(1919~1925)。

・・・第一次世界大戦は社会を大きく変革する出来事だった。

ウイーン工房では、戦中から活動に携わってきた女性たちが完全にその中心を担うようになる。

彼女たちが生み出す、カラフルで愛らしい柄模様は工房初期とは大きく異なる志向を示す。

フランスでは、新しい時代の女性に相応しいファッションが対抗心から戦前に立案されたものだったが、

各パヴィリオンには様々な室内装飾が実現し、そこにはフランス版モダニズムともいうべき次代の予兆も認められた。

敗戦国ドイツでは、1919年に新たな社会の建設を目指してバウハウスが設立された。

工房を備え、基礎教育に加えて職人的な技術の習得が目指されたが、1923年には芸術と技術の統一を掲げ、量産可能な製品制作へと方針を転換する。

日本でも生活改善運動が揚げられ、斎藤佳三や森谷延雄らが、旧い習慣と折り合いを付けながら、近代社会に相応しい服や家具を提案したのだった。

チャプター 4、(1926~1938)。

・・・1925年、デッサウへ移転したバウハウスでは、合理化の方針が一層強化され、1927年には念願の建築科が設立される。

織物工場ではサンプル制作や新素材の使用など、織物に関する理論的な取り組みがなされた。

一方、ハレのブルク・ギービッヒェンシュタイン美術工芸学校では、職人的な仕事が重視された。

そのためバウハウス移転時には、陶器工房のゲアハルト・マルクスなど幾人かの教員や生徒が同校に籍を移すことを選んでいる。

フランスではガブリエル・シャネルやマドレーヌ・ヴィオネが、機能性と装飾性を備えたドレスで新たな装いの瀬流を生み出す。

1929年には現代生活に相応しい建築・応用芸術の創造を目的に現代芸術家連盟(UAM)が結成された。

ナチスの台頭によりバウハウスは、1933年閉鎖へと追い込まれたが、留学経験者の山脇巌・道子らがバウハウスの理念を日本に持ち帰る

そして同じ頃、型而工房は標準家具の開発に取り組んでいた。

それぞれの活動は第二次世界大戦の勃発により、形や文脈をかえて展開し、又場所を変えて引き継がれることになった。

バウハウス概要。

・・・チャプターに頻繁に述べられるバウハウスについて検索し、その概要をまとめてみました。

理念

絵画、彫刻、建築。工芸教育に新たな方法を用いたドイツの総合的造形学校。

歴史(創設~廃校)

1919年に建築家グロヒウスによってワイマールに創設された純粋芸術と工業技術との総合的発展を目的とした。

ドイツ、オーストリアから多くの学生が集まったが、ワイマール市民がその革新性に批判的であった。

よって、1925年にデッサウに、さらに1932年にベルリンに移転したが、1933年ナチスによって廃校になった。

主な指導者

建築家:「グロピウス」と「ミース・ファン・デル・ローエ」、画家:「カンデンスキー」と「クレー」そして「モホイ・ナジ」「ファイニンガー」、彫刻家・デザイナー:「マルクス・シュレンマー」など

授業・教育内容

学生は半年間の準備コースを終えて、約3年間各専門の実施教育を受けた。

廃校後の活動。

廃校後は「モホイ・ナジ」がシカゴにニュー・バウハウス(デザイン研究所)を創設、「グロピウス」「ミース・ファン・デル・ローエ」らも渡米し、アメリカでバウハウスの理念を発展させた。

ワイマールとデッサウに残るバウハウスの作品群は1996年世界遺産の文化遺産に登録された。

 

携帯の充電と2Fレストラン

携帯の充電。

・・・入館し、チャプターなど携帯で撮影していたら、突然携帯の画面が真っ暗になり、充電が必要となりました。

スタッフの説明で、充電器ケースロッカー室左の自販機の前方の台3台備えてありました。

30分100円で、どんな機種でも充電OKです。私は操作が途中で分からなくなり、スタッフの方にお願いしました(お手数をお掛けしました)。

2F レストランを利用。

・・・そうこうしているうちに偶然館内で、版画仲間(愛知県美術館の監修者)に会いました。

彼は、来月豊田市民会館で兄弟展の準備をしており、その手続きを済ませた帰りに豊田美術館に寄ったといいます。

丁度、私の携帯の充電の待ち時間が30分あり、お昼時間とも重なったので、レストランで一服しました。

建築関係に従事していた彼曰く、豊田市美術館の建築は谷口𠮷生氏(85才)であり、

ニューヨーク近代美術館の増改築設計者、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、香川県立東山魁夷せとうち美術館など多数手がけているとのことでした。

ハイライトツアーへ参加。

・・・携帯充電と食事も済んだ段階で、ハイライトツアー(約40分)の館内放送の呼びかけがありました。

館内ツアーはコロナ禍で出来なかった。今回、短時間・距離を保っての前提で行われました。

ラッキーでしたので以下記事にしました。何か参考になれば幸いです。

1Fから2Fへ上がる空間も展示場。

・・・ボランティアの方:豊田市美術館はモダンをコンセプトにし、建築は美術館建築で名高い谷口𠮷生氏です

建築設計者の紹介の後、1Fから2Fへ上がる空間も展示場ですと説明されました。

それは「階段の壁」と「電飾掲示板」です。

階段の壁に埋められた人名ボードと現代を意識した天井からの電飾掲示板に新たな気づきがありました。

写真(1Fから2Fを撮影):右壁は名前を記したボード、上部は電飾掲示板。

 

写真(2Fからロビーを撮影):左側は名前を記したボードと、中央の電飾掲示板。

 

2F 3F 常設展。

・・・ハイライトツアーで2~3作品について説明がありました。

<グスタフ・クリムト>(1862~1918)

・・・先ず、グスタフ・クリムトの晩年の作(1914年)で、豊田市美術館が誇る作品です。

クリムトの有力なパトロンの妻、その娘を描いた作品はアメリカの美術館にある。並べることが出来たらすごい!。

作品の題名<オイゲニア・プリマフェージの肖像>*作品の一点撮りはできません(撮影について豊田美術館よりの注意書きより)。

2Fの階段を上がって正面の小さな部屋の真正面に陳列してあります。

<ジュゼッペ・ペノーネ>(1947~)

・・・一見真っ黒な画面ですが、近づいてみるとにンピつで書いたしわのような銀色でしわが描いてある。

作品の題名<黒煙の皮膚ー方鉛鉱の影>*作品の一点撮りはできません(撮影について豊田美術館よりの注意書きより)。

まるで人間のしわのようですが、方鉛鉱を拡大して鉛筆を用いて描いたものです。

「鉱物も人間と同じ宇宙に存在する仲間である」との意識を与える作品です。

その他の作品

  • 国吉康雄:花飾りを付けた女。
  • 藤田嗣治:美しいスペイン女。
  • 梅原龍三郎:少女アニーン。
  • 岸田劉生;自画像。

 

交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニーのまとめ。

・・・チャプター1~4に従って「モダン」が、時代の流れとともに、ジャンル・国を飛び越えて同期し進化してゆく様が説明されています。

それに関連する、絵画・彫刻・建築・工芸教育に関する、創設から廃校迄豊富な展示物で分かり易く説明されています。

1910~30年代のモダンなデザインの家具や服などを集めた見ごたえある企画展です。

今回、携帯の充電、版画仲間との遭遇、レストランの利用及びハイライトツアーの参加などバラエティーに富んだ一日となりました。

当記事があなたの鑑賞の参考になれば幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

前回、展示会:Sunset/Sunrise展、(2022/2/15~5/8) 。済。

小林孝亘さん18点展示、絵画の「光」多様な作家と共演

豊田市美術館より本展概要。

<本展、入口の説明書>

なかなか長時間立ち止まって読めませんので、写メをしたのを掲載しました。参考にしていただければ幸いです。

・・・「サンセット(日没、夕暮れ)」と「サンライズ(日の出、夜明け)」。

それは、毎日、誰でも、平等におとずれる美しい自然現象です。

生きとし生けるものはすべて、この宇宙に流れる悠久のリズムに寄り添いながら生きています。

サンセット/サンライズが孕むイメージの豊かさは、眠りと目覚め、終わりと始まり、死と生、闇と光など、さまざまな象徴や解釈の可能性を差し出してくれるところにあります。

こうした生きる人間の儚さと強さ、相反する価値観やそのあわいなどをも表す意味の広がりは、まさしく芸術家たちの創造の問いかけと重なりあうものです。

また、日没と火に出の前後に現れる薄明の神秘的な時間帯は「マジックアワー」とも呼ばれています。

心が動かされる魔術のような光景に立ち会う経験は、思いもかけない美術作品との出会いにどこか似ているともいえるでしょう。

本展は、こうした「サンセット/サンライズ」から派生する多様なイメージ・想像力を手がかりに、豊田市美術館のコレクションの中から厳選した作品約120点で構成する試みです。

さらに招待作家として、愛知県にゆかりのある小林孝亘氏を迎え、静けさと強い存在感をもつその数々の絵画作品を豊田市美術館のコレクションとともに紹介します。

今、世界を覆う深い闇からの夜明けを祈りつつ、美術館で心を揺さぶられる豊かな「サンセット/サンライズ」のひとときをお楽しみください。

最後になりましたが、この展示会の開催にあたり、多大なるご尽力を頂きました小林孝亘氏、貴重な作品をご出展くださいました美術館、画廊、所蔵家の方々に厚くお礼申し上げます(以上、豊田市美術館)。

招待作家、小林孝亘氏。

・・・日常で出会う事物や人物を具象的に描くことで知られる画家(62才)=神奈川県逗子市=が、新作を吹きむ18点を展示しています。

「日没」から「日の出」をテーマにしたコレクション展。招待作家として自身の絵に立ち現れる「光」で、会場を照らします。

小林孝亘氏は東京都出身。愛知県立芸術大で油彩画を学んだ。卒業後、同県内でまとまった形で作品を阿紹介するのは初めてです。

自身を潜水艦に見立てた初期の油彩画から、木漏れ日を表現した「森」のシリーズの新作までが、美術家・奈良美智さんの絵など約120点と共に並びます。

小林氏:「サンセット/サンライズ」は、自分の続けてきた制作にもつながっているテーマです。

展示全体を通じて見せられるものがあると思いました。新作「Pillow」に描かれた枕は、長年手掛けてきた題材の一つです。

横の展示ブース:作品は、現代芸術家・河原温さん(1932~2014)の絵画「Today]シリーズです。

河原さんは、このシリーズで、制作した年月日だけを画面に描くことで、普遍性を追求した作品です。

小林さんの作品は、呼応するように、まぶしい光を浴びた枕から、死と生という普遍的なテーマが浮かび上がりました。

<「真昼」と名付けられた展示室の概要>

「真昼」と名付けられた展示室に飾ったのは、日の差し込んだ森を背景に絶妙なバランスで立つ積み木や、海辺に置かれたテーブルやつぼなどを描いた絵画です。

長く森を題材にしてきたが、近年は海辺の風景が登場することが多くなったという。

「森を抜けて、開けて海が見えたところ」と心境の変化を小林さんは語る。(2022/2/18付、中日新聞)。

展示会情報や:Sunset/Sunrise展、まとめ

・・・展示全体を通じて、小林孝亘氏の作品は具体性の強い作風ですが、河原温さんや、他の作家の作品と連なることで新たなイメージや見方も広がると思いました。

小林さんの作品「Pillow」の横の展示ブースに、河原温さんとの作品のコラボは死と生が浮かび上がります。

展示会「サンセット/サンライズ」は、5月8日まで開催です。作品を楽しんでいただければ幸いです。

又、蛇足ですが、出口へ向かったつもりが、初めてアクリルの壁におでこをぶつけてしまいました(痛)。

幸い眉の上がたんこぶ状に盛り上がり、痛い程度で済みましたが、アクリル壁がクリーンですので、お気を付けくださいませ(笑)。

モンドリアン展(2021/7/10~9/20) 済。

モンドリアン(1872生~1944没)について

は1872年生まれのオランダの画家:アムステルダムの美術学校で学びました。

はじめは伝統的な画風で故郷オランダの牧草地や木々等風景画を描いていました。

1908年頃からフォービズム(=野獣派:マチス・K.ドンゲンや)・象徴主義のJ.トーロブの(⇔リアリズム:ゴーガン・ルドン)影響を受けました。

さらに1911年パリに移住してからは、キュビズムに興味を持ち、線と面による独特の抽象的画風を確立しました。

この傾向はさらに強まり、1914年オランダに帰国後は、対象を全く除去し、多様な短形の集合による美を追求した。

1917にJ.ドースブルフらと「デ・ステイル」を結成、新造形主義を主唱した。(デ・ステイル=オランダ語で様式)。

1919年から再びパリに住み活躍したが、1938年に戦火を逃れてロンドンに行き、1939年にニューヨークに移住した。

黒の水平線と垂直線と三原色で構成された彼の作品は、絵画ならず多方面に影響を与えた。

ちなみに家具設計・建築・彫刻・音楽にも影響、結果的に彼らの芸術活動は、後世のデザイン界に多大な影響を及ぼしました。(会場、作品説明パネルより)。

印象に残った、館内撮影可能エリアの作品

館内撮影可能エリアで印象深い作品を写真撮影しました。写真は登載しませんが、作品案内パネルのコメントを紹介します。

  • 1917「夕暮れの風車」・・・抽象画に向き合おうと決心している時期で、レアな後期の具象画作品です。
  • 1918「自画像」・・・背景は、一見ただの抽象的なタイルの模様に見えます。しかし、のちに主唱する新造形主義をこっそり忍び込ませています。
  • 1921「大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション」・・・円熟した新造形主義の好例です。
  • 1937「緑の色のコンポジション」・・・彼の作品は、平坦で静的な調和を探求したものだと誤解を避けたかった。よって、平面を「破壊」しようと、線を二重にした。それに続いてリズムを現した例。ジャズ音楽から着想を得たものです。

<まとめ>

*今回のモンドリアン展で、主要作品1921年「大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション」に出会えたのは至福の喜びでした。

加えて「夕暮れの風車」は、最後の具象画としてぜひ見たかった作品でした。何回も観賞できて、大満足でした。

円熟した新造形主義の好例として、影響を受けた家具(椅子など)が、展示会場に同時に陳列されていました。

また、撮影OKの作品ブースも設けられており、展示全体に細やかな工夫がなされておりました。大満足のモンドリアン展でした。

豊田美術館で、年間パスポートの購入を検討されている方、モンドリアン展の内容を知りたい方の、参考になれば幸いです。

高橋節郎館(豊田市美術館隣接)。

写真:高橋節朗美術館は豊田市美術館の北側で隣り合わせの建物。

高橋節郎記念館とは。

昭和59年(1984年)豊田市で開催された展覧会が機縁となり、漆芸家の高橋節郎氏より多数の作品が豊田市に寄贈されました。

平成7年(1995年)には豊田市美術館の隣に高橋節郎館が開館し、ここで同氏の作品を展示公開しました。

並行して、漆文化の普及を目的とした各種事業を行ってきました。(ネット情報:公益法人 高橋節朗記念美術文化振興財団より)

年間パスポートにて、常設展高橋節郎館も同時に入館出来ます。ちなみに入館料は一般:300円、高校・大学生:200円、小中学生:無料です。

高橋節郎(1914生~2007没)について。

黒漆と鎗金が織りなす、力強くも幻想的な独自の世界を築き上げた漆工芸家です。文化勲章受章・文化功労者。

現安曇野市穂高に生まれ、少年期を穂高町・松本市で過ごしました。

東京美術学校(現芸大)工芸家・漆後部、卒業後、文展(現日展)に入選(ネット情報:安曇野市ホームページ)。

<作品感想>

全ての色を集めた「漆の黒」と永遠に色あせない「金色」で織りなす幻想的な作品です。

幼少期を過ごした信州の豊かな自然に囲まれ育った作者の世界観が伝わってきます。

普段の生活の中で忘れがちな普遍的な現象、大きくは宇宙と地球・人間と自然・自然の中に生かされている人間を感じながら拝観しました。

<豊田市美術館・高橋節郎館へのアクセス>

名鉄豊田市駅から徒歩15分。タクシー料金:690円~780円。

美術館から一番近いバス停まで約8分かかります。お天気次第ですが、健康が許すなら徒歩がおすすめです。

<まとめ:年間パスポート>

年間パスポートを購入し、コスパ的にお得だと感じたのは、同伴割引(人数制限なし)と掲載された県内美術館の団体割引料金適用そして、高橋節郎館のセット拝観が魅力的でした。

これから年間パスポートの購入を検討される方に参考になれば幸いです。

 

「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」(10/23~2022/1/23) 済。

ホー・ツーニェンは、シンガポールを代表する芸術家。

・・・1976年シンガポール生まれ。現在も同国を拠点に活動する。

2011年のベネチア・ビエンナーレでシンガポール代表として個展を開催。

光州ビエンナーレ2021年、カンヌ国際映画祭監督週刊2009年などに出展。

日本では森美術館(東京)などで個展。2014年にアジア太平洋酒造協会基金芸術賞大賞。

「一頭あるいは数党のトラ」2017年など、マレーに生息するトラを扱った作品も多い。

制作進行中の「東南アジア批評辞典」(2012年~)~などの作品がある。

今回の作品「百鬼夜行」の意義を話す。

・・・外国人の目から日本の歴史を批判的に扱うことは「自分はよそ者。

謙虚であることが大事」と思う一方で、「中の人がとらわれすぎていて見えないものに、そとから力を加えて反応を引き出せる」と、意義も感じる。

「日本人ならわかる文脈を逃がすかもしれない」という意識も持ちながら、制作にあたっている(2021/11/12、中日新聞)。

「百鬼夜行」(インスタレーション)概要。

・・・映像・サウンド・演劇など、多様な表現を用い観る者を魅了インスタレーションです。

本展では、第二次世界大戦中マレーで知られた日本の軍人、スパイらが妖怪に扮し登場。

日本の複雑な歴史や精神史をあらわにします。

入館料:一般1000円(前売り800円)、高大生800円(同600円)中学生以下無料。

<今回の展示(映像)に関する、おすすめ>

展示室にそれぞれに展示される映像の時代背景、妖怪の説明を読んでからの入館がおすすめです。

実際に展示室に案内される前に説明書(細かい字)を読んでからの入室が困難な場合、下記、展示室ごとの百鬼夜行及び投影時間を記事にしましたので参照いただければ幸いです。

展示室1~4における妖怪の紹介、投影時間。

  • 展示室1100の妖怪、16分30秒。
  • 展示室236の妖怪、18分45秒。
  • 展示室31人もしくは2人の妖怪、17分25秒。
  • 展示室41人もしくは2人の虎、(スクリーン1・8分スクリーン2・8分)

展示室1、「100の妖怪」。

・・・百鬼夜行は眠る人々から始まる。手前のスクリーンには、病床の源頼光、酔っぱらって路上で眠り込むサラリーマン、空中に浮かんだ未来の少女で、過去から未来までの日本人が映し出される。

夢の中では、人々は社会が課す抑制から解き放たれ、無意識下に潜む欲望や恐怖、幻想が頭をもたげてくる。

その日本人の集合的な夢からユーモラスな妖怪たちの百鬼夜行が生まれてくる。

そこには第二次世界大戦中に「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文(ともゆき)谷豊、そしてその周囲で暗躍した軍人やスパイもともに行動している。

各時代固有の宗教的、文化的、政治的文脈の中で形成され変化してきた妖怪は、日本の隠れた歴史を映し出す。

江戸時代までは恐怖の対象であった妖怪は、鳥山石燕(せきえん)が百科事典的に図解し分類すると、畏怖と娯楽の入り混じる対象になった。

しかし、明治に入り、日本が西欧に並ぶ近代的国民国家を目指すようになると、哲学者で啓蒙主義者でもある井上円了は、妖怪を古い迷妄の世界に属するものとして徹底的に退けた。

他方で昭和初期には、民俗学者の柳田國男が、日本人のアイデンティティを支える対象として再び妖怪に目を向けた

地域ごとの信仰や生活が投影された様々な妖怪たちは、近代の合理主義と国民国家の到来とともに追放されたかに見えた。

しかし、彼らは、消えたわけではなかった。昭和後期に近づく1970~80年代頃、水木しげる漫画とアニメは、妖怪を親しみを感じさせる存在にした。

そして、「妖怪ブーム」といわれる時代、妖怪は日本文化の象徴になり、漫画やアニメのイマジネーションの領域で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。

妖怪は、太古の昔から現在に至るまで、日本の大衆的想像力の受け皿になってきた。

そして現代、アニメーションにより作動するアニミズムによって、妖怪たちは想像の領域で再び生き生きとした生命を吹き込まれた。

妖怪が姿を現し始める黄昏時は、逢魔時(おうまがとき)または大禍時(おうまがとき)とも呼ばれる。

それは魔物に遭遇する時、または災いが起こる時である。妖怪はいつもある現実と別の現実との間を行き来し、光と闇の間に存在する。

展示室2、「36の妖怪」。

妖怪のなかには、天狗や狸のように、戦争と関係する妖怪もいる・天狗は武芸に秀でているといわれ、戦中には天狗信仰が流行した。

しかし、天狗には人を「神隠し」に合わせ、病気や死をもたらし、仏法を妨げるといった悪しき側面もあった。

または、日清・日露戦争時に小豆に化けて前線に行き、日本兵とともに赤い服を着て戦ったという逸話が残っている。

それぞれの時代が、望みを必要とする妖怪を作り出したのだった。

作中では、行燈の油を舐めているとされていた化け猫と火間虫入道の2つの妖怪は、太平洋戦争開戦時にマラヤのほか東南アジアの国々に石油資源を求めて侵攻した日本と関係づけられている。

さらに戦中に実在した人物たちが妖怪に加わる。山下泰文と谷豊の2人の「マレーの虎」は、人虎になる。

諜報員養成機関の陸軍中野学校が輩出したスパイたちは、のっぺらぼうになる。

軍国主義と複雑な関係を持った禅学者の鈴木大拙(だいせつ)は、ぬらりひょうたんになる。

そして深刻な戦争犯罪を起こしたとされる、悪名高い軍人の辻政信は、新たな妖怪の偽坊主になる。

妖怪は、大衆の無意識の現れとされる。人間に似ていながら、暴力性や醜悪さが際立つ妖怪は、私たちのなかにある魔をあらわにする。

そう遠くない過去に、まるで無意識の欲望や恐怖が現実世界に溢れだし、全体が魔に魅入られたような戦争の時代であった。

江戸時代の遊び「百物語」では、1つ怪談を語り終えるたびに1つ灯りを吹き消し、百話を語り終えて最後の明かりが消えたとき、本物の妖怪が姿を見せるという。

最後の妖怪が登場して明かりが消えたとき、そこに何を見るだろう。怪異を知ることは、私たち自信を知る事である。

展示室3、「1人もしくは2人のスパイ」。

・・・百鬼夜行の行列には、多くの顔のないのっぺらぼうのスパイたちが行進している。

1938年に、日本は諜報や防諜、宣撫に関する教育や訓練を行う「陸軍中野学校」を設立した。

各部隊や大学から秘密裏に推薦された受験者は秀才ぞろいであったが、次々に出される難問を突破した者たちは、まさに俊英中の俊英であったといわれる。

彼らは入学したその日から、本名を捨て過去と決別することになるが、校風は軍隊的な規律に縛られない自由なものであった。

軍隊では死を立派なものと謳いあげていたが、中野学校では生き抜いて任務を果たすことが肝要とされた。

中野学校がめざしたのは、目的のためには手段を択ばない諜報活動ではなく、「謀略は誠なり」を合言葉に、道義ある諜報員を育成することであった。

しかし、1944年に戦局が悪化して本土決戦が想定されるようになるると、軍はゲリラ部隊の大量教育を中野学校に要請する。

新たな校舎が静岡県の二俣町に設けられ、在校生の数も膨れ上がった。

中野学校で一年間充実して学べたのは二期生までで、太平洋戦争が始まると、在校生は繰り上げ卒業し、次々にアジアおよび東南アジアの国々に送り込まれていった。

1940年、この中野学校の出身者6名を加え、藤原岩市少佐長に、陸軍が南方の秘密工作機関として編成したのが、「F機関」であった。

その任務は、アジアの民族独立の支援と日本軍への協力要請であったが、まず緊張を高めつつあったマレー方面での秘密工作が画隠された。

そのうちの一つが、「マレーの虎」と呼ばれた日本人盗賊、谷豊を諜報員として勧誘する、「ハリマオ作戦」であった。

もう一人の「マレーの虎」の山下奉文大将の周囲にも、素性を変える様々なもの達がいた。

マラヤ侵攻の際に戦術立案者として重要な役割を果たした辻政信は、終戦時に戦争犯罪の追及から逃れるために僧侶に化けた

また国への義務から逃れるため、そして自らの道を進むために、素性を偽った者もいた。

一枚のスクリーンの表裏に、アニメーション/実写、虚構/史実の映像が投影されると、互いの像が重なり、ずれ、オリジナルとフィクションの境界が揺れて溶け合う。

この曖昧さのなかで、幾人かの「のっぺらぼう」は、「行為的主体(エイジェンシー)」として自らのためのスパイ(シークレットエージェント)になるのだ。

展示室4、「1人もしくは2人の虎」。

最後に、この展覧会に繰り返し登場してきた2人の「マレーの虎」について紹介したい。

第二十五軍司令官の山下奉文大将は、シンガポール攻略の際に、数の上で圧倒的に優位な舞台を打ち負かし、「マレーの虎」と呼ばれた。

もう一人の「マレーの虎」、谷豊は、マレーを舞台に暴れまわったマレー育ちの日本人盗賊であり、現地の貧者や弱者に味方する義賊的な英雄として敬われ、かつ恐れられたという。

後に谷は、中野学校で訓練した「F機関」のスパイ、神本利男の説得により、イギリス軍を後方で攪乱するスパイになった。

谷は60年代の人気テレビ番組「怪傑ハリマオ」の実在のモデルで、「ハリマオ」とはマレー語で虎を意味した。

アジアの広域にわたり生存していたため、しばしばアジアの象徴的な動物とされる虎は、日本には生息していなかった。

しかし中国から伝わった虎の画像は、強さの象徴として武家文化と結びつき、室町後期以降盛んに描かれるようになる。

虎の図柄はそれ以降、中国や韓国から伝播する絵画を基に、想像の領域で展開してきた。

一般の人々が実際の虎を見るようになるのは、1861年にオランダ船がマレー半島で捕獲した虎を日本に連れてきたからであった。

明治以降、日本人が本物の虎を目にする機会は増えていくが、それは同時にアジア各地で虎が狩られていくことと並行していた。

昭和に入って第二次世界大戦が始まり、日本が国境を越えて進出していく道を模索し始めると、虎は「アジア的強さ」の象徴になり、山下大将や谷豊の愛称になった。

しかしこの二人の「マレーの虎」は、やがて悲劇的な戦争の時代に悲劇的な死を迎える。

1960年代、「マレーの虎」は、アジアの人を植民地支配から救うヒーロー「怪傑ハリマオ」としてよみがえる。

そして、日本が再び経済拡張によりアジアに進出していた80年代末、谷豊は再び映画「ハリマオ」(和田勉監督、1989年)の主役として蘇るが、ここでは軍に利用された哀れな人物として描かれる。

そして現在も、虎は多様なキャラクターになって私たちの前に現れる。

ヒーローに転じた悪役として、魅惑的な獣性を持つ女性として、また私たちの内に秘めた超自然的な力として、時代に応じた「虎」の変容は、日本の戦争に対する精神的・時間的な距離感を映し出す。

虎は時代から時代史実から物語へと跳躍しながら、私たちの前に繰り返し姿を現す。

もともと日本に存在しなかった虎は、アジアの運命と共に変容を繰り返す。

しかし現在の虎は、消費の欲望の中で流動する、より柔軟で空想力に満ちた幻影である。

これから日本の、そしてアジアの虎は、既知と未知の揺れる境界でどのような姿を見せるだろうか。

ホー・ツーニェン展「百鬼夜行」まとめ

展示方法

今回のホー・ツーニェン展は、映像・サウンドを中心とした、多様な表現を用いる展示会でした。

従来の展示会とは異なる展示方法で、展示室1~4の説明書を読みこんでから観ると理解がしやすいかと思います。

日本の近代の歴史を映し出す

妖怪と戦争とは、奇妙な取り合わせだと思われるかもしれません。

しかし本展では、妖怪と戦争はどちらも日本の近代以降の歴史を映し出します。

明治に入り、西欧に並びうる近代国家を目指す過程で、妖怪は古い迷妄の世界に属するものとして退けられました。

しかし、「妖怪ブーム」と言われる現代、妖怪は漫画やアニメのイマジネーションの領域で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しています。

妖怪は消えてしまったのではありませんでした。妖怪と戦争は、日本の固有の文化と近代化の複雑な関係を浮かび上がらせるのです。(豊田市美術館学芸員・能勢陽子)。

他の展示作品

また同時に展示されている他の展示室にも、興味のある作品がたくさんありました。

  • 浜田知明 群盲 1960年(エッチング・アクアチント)
  • 藤島武二 素描 1920年頃 (鉛筆・インク・紙)
  • 藤田嗣二 美しいスペイン女 1940年(油絵・カンヴァス)
  • 小堀四郎 イタリアの少年 1929年(油絵・カンヴァス)
  • 宮脇綾子 赤い蟹ほか 1980年~ アプリケ作品多数

今回のホー・ツーニェン展は、多様な表現を用いる展示会(インスタレーション)でした。展示内容の事前情報が参考になれば幸いです。