食べ物

日本茶(緑茶)、歴史・製法・種類。(麦茶)、歴史・製法・種類と楽しみ方・効能。(昆布茶)その他。

 

・・・過日に日本料理の記事にトライしましたが、日本料理は種類が多くておまけに奥が深く、次々と知りたいことが多すぎてきりがないと実感しています。

高齢になった現在、一休みする時の午後の紅茶は緑茶に変わりました。そして若い頃、コーヒー一杯で長居をしていると出してくれた、喫茶店の昆布茶を思い出すのです。

麦茶を含め、その歴史的由来・製法・種類など、詳しい知識がない事に今更ながら気づきました。そして、またまた調べたくなりました。

そこで先ず緑茶から、麦茶そして昆布茶をマイペースではありますが記事にしました。何か参考になることがあれば幸いです(笑)。

日本茶(緑茶)

緑茶の歴史

奈良~平安時代

・・・お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。

平安初期(815年)の『日本後紀』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。

これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。

お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。このころの茶の製法は、「茶経」にある餅茶であったようです。

写真:現在の餅茶、当時の写真はありませんので現在の餅茶で想像しましょう。

 

鎌倉~南北朝時代(1336~1392年)。

・・・日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(えいさい、1141-1215)は、二度、に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きしました。

帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説きました。

1214年、栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬としての茶にそえて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されています。

「喫茶養生記」は、製茶法についても記述がありますが、これは宋代に作られていた蒸し製の散茶であり、碾茶の原型とも言えます。

これを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようです。

碾茶(てんちゃ)>パリッとした触感と豊かなお茶の風味が特徴。

碾茶は石臼で挽く前の抹茶、つまり抹茶の原料です。
旨味がしっかりとあるため、お茶として甘いお味を楽しむこともできますし、青のりのようにお料理に振りかけたり添えたりしてもおいしくいただけます。

写真は、碾茶。かぶせちゃの製法で碾茶を作り、それを石臼で挽いて抹茶にします。

 

華厳宗の僧である明恵上人(1173~1232年)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。

鎌倉末期から南北朝(1336~1392年)にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。

鎌倉時代には、禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。

さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」が行われました。

室町~安土桃山時代(1573~1603年)。

・・・足利義満(1358~1408年)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537~1598年)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工されました。

写真:伝統的な被覆(よしずとわらの被覆)、京都市HP。

 

15世紀後半に村田珠光(1423~1502年)は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555年)、

さらに、千利休(1522~1591年)らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。

江戸時代(1603~1868年)

・・・茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。

一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録からうかがえることができます。

庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったようです。

1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出し、煎茶の祖とよばれています。

これまでにない緑色の水色と甘味、馥郁(ふくいく)とした香りは江戸市民を驚嘆させました。

宗円が生み出した製法は、「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。

また、より高級な煎茶を開発しようと、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、1835年、山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により玉露の製法が生み出されたといいます。

写真:直掛けがけ被覆、黒カンレイシャや表が銀色の資材を用いる(京都市HP)。

 

近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)と呼ばれる人々が許可制で茶の取引を行うようになりました。

1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸とならぶ重要な輸出品として181トンが輸出されました。

明治時代~昭和初期(1868~)

・・・明治維新後も、茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、明治20年(1887年)まで輸出総額の15~20%を占めていました。

明治初期、士族授産事業などを契機に牧の原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。

しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していくようになったのです。

これは、茶の輸出価格の下落や、茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったようです。

集団茶園の形成は、茶園の形成だけにとどまらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。

高林謙三(1832~1901年)による茶葉揉葉機の発明をはじめ明治期には、機械化が急速に進んでいき、省力化と共に品質の安定化に寄与しました。

明治中期まで、花形輸出品として発展してきた日本茶も、インド、セイロン紅茶の台頭で、輸出は次第に停滞していきます。

代わりに国内の消費が増え、お茶は国内向け嗜好飲料に変わっていきました。お茶が日本人の生活に根付いたのは、大正末期から昭和初期と言われ、意外に新しいのです。

緑茶の製法

1、摘採(てきさい)

・・・お茶畑で、人々が茶葉を摘みながら歌うのを想像します。茶摘みの方法は、手摘み・はさみ摘み・機械摘みがあります。現在ではほとんどが機械摘みです

写真:機械での茶摘み風景。

 

2、蒸熱(じょうねつ)

・・・茶葉を蒸し機に入れて、酸化酵素の活性を停止させます。蒸の強弱によりお茶の風味が変わります。

写真:蒸し機、(蒸時間、約100℃で30秒から1分)。

 

3、冷却(れいきゃく)

・・・茶葉に風を当て、茶葉の表面の水分を取り除きながら冷やしていきます。

4、粗揉(そじゅう)

・・・粗揉機に入れ、茶葉を熱風で攪拌しながら乾燥させます。

5、揉念(じゅうねん)

・・・ローラーで茶葉に力を加えて、水分の均一化を図りながら揉みます。

写真:揉念機、(10年時間、約10~15分)。

 

6、中揉(ちゅうじゅう)

・・・茶葉を再び熱風で揉みながら乾かしてゆきます。この作業で中心部の水分も乾かします。

7、精揉(せいじゅう)

・・・茶葉に熱と力を加えて揉みます。針のようにまっすぐに伸びたお茶になるよう、形を整えながら乾かします。

写真:精揉機、(精揉時間、約40~50分)。

 

8、乾燥(かんそう)

・・・茶葉を十分に乾かします。乾燥し終わった針のような茶葉を「荒茶」と言います。

写真:乾燥機、(乾燥時間、70℃で20~30分)。

 

9、選別(せんべつ)

・・・「荒茶」は、形がいろいろな状態でまじりあっています。ふるいにかけたり、切断したりして形を整えます

写真:選別機(荒茶の形を整えます)。

10、乾燥(かんそう)

・・・さらにお茶を乾燥させることによって、お茶独特の香りが引き出されます。

11、包装(ほうそう)

・・・仕上がったお茶を計量して、茶箱や袋に詰めます。(参考文献:「日本茶」、池田書店発行)。

緑茶の種類

煎茶

・・・煎茶は新芽が出てから摘み取りまでずっと日光を浴びせて育てます。国内で最も生産量が多いお茶で、緑茶の8割を占めています。

煎茶の特徴は、すがすがしい香りと、渋みの中にもほんのりと甘みが感じられる味わいです。水色の理想とされるのは、緑がかった金色透明できれいな黄緑色です。

写真:煎茶、(引用文献、池田書店 日本茶)。

 

深蒸し茶

・・・此の製茶法は、昭和30年代静岡県中部で始まりました。比較的、新しいタイプのお茶と言えます。

煎茶の蒸時間は、約100℃で30秒から1分ですが、深蒸し茶の蒸時間は長く、約1分から120秒です。特に蒸時間の長いものは「特蒸茶」と呼ばれています。

普通の煎茶よりも香りは弱いですが、渋みが抑えられた濃厚な味が特徴です。個人的には深蒸し茶がお気に入りです(笑)。

蒸時間が長いので、お茶の葉の繊維質がもろくなり、普通の煎茶よりも茶葉は細かく粉状のものが多く混じっているため水色は濃い緑色になります。

玉露

・・・玉露は早ければ新芽が出始めたら、もしくは茶摘の約3週間前から日光を遮って育てます。

遮光率(日光を遮る度合い)は最初70%前後から始まり茶摘前には90%以上の遮光率で育てます。

この栽培法で甘み成分であるテアニンを含アミノ酸類が多く含まれる茶葉が出来上がります。まったりとした旨みもこうした製造過程によって生まれます。

抹茶

・・・かぶせちゃの製法で碾茶を作り、これを石うすでひいたものが抹茶です。かぶせ茶は玉露と同じく日光を遮り育てます。

遮光期間は、茶摘前1週間から10日前後のとなっており 、玉露より短く遮光率は玉露より低く50%前後なのが一般的です(碾茶の40%は、愛知県西尾地域で生産)。

写真:碾茶、40%は、愛知県西尾地域で生産されています。

湯に溶いて飲む抹茶は、茶葉そのものを飲むことが出来るため、茶葉に含まれるビタミンC、ビタミンEカロテン食物繊維などを丸ごととることが出来ます。

ほうじ茶

番茶や煎茶を強火で炒って、独特の焙煎香を付けたお茶です。主に番茶を炒ったものが出回っています。

茶葉は褐色(黒みを帯びた茶色)、水色(すいしょく=お茶の色)は茶色。香ばしい香りと、口当たりの良いさっぱりとした味わいが特徴です。

玄米茶

煎茶や番茶などに、煎ったお米を1対1の比率でブレンドしたお茶を言います。

香ばしい玄米の香りと、すっきりした味わいが特徴です。玄米茶と言っても実際に使われているのはもち米、もしくはうるち米です。(参考文献:「日本茶」、池田書店発行)。

緑茶の産地などにつきましては日本茶の産地。お茶を楽しむ(地域別・買い方・保存法・美味しいお茶)。番外編、抹茶スイーツ。をご参考いただければ幸いです。

 

日本茶(麦茶)

麦茶の歴史

原始農耕から

・・・麦は、紀元前2~3世紀に日本に伝わってきたといわれています。

大麦は、古くから人の食料として用いられていますが、生穀粒のままでは食べられないため、麦を炒って水に浸けて食べていました

また、ごく自然に炒り麦のつけ水を飲んでいました。したがって、炒り麦を湯で煮だして飲む風習は、原始農耕の始まった頃からあったと考えられます。

平安初期

・・・日本の歴史上の記述は、平安期初期(10世紀初め頃)に編集された日本最初の百科事典ともいうべき「和妙類聚抄」の中に、「米麦を乾かし、これを炒って粉にし、湯水に点じて服す。」との記述があります。

現在の麦茶とは違いますが、煎った麦の香ばしさを楽しむ飲み物、という点では麦茶の原型があったと言えるのではないでしょうか。

又、その後の文献によりますと、麦湯(麦茶)は平安時代より室町時代までは、おもに貴族が飲用していたと記されています。

秀吉の大茶会

・・・その後、麦茶が歴史上に登場するのは、1517年(天正15年)豊臣秀吉が京都の北野天満宮で大茶会を催した時の様子を記した「北野大茶湯の記」によれば、

秀吉が建てた高札7ヶ条のお布令の1条に、「茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、

茶なきものは、こがしにても苦しからず候間、堤げ来たり仕るべく候事」とあり、庶民の間では、「麦こがし」が、お茶がわりに飲まれていたことがうかがわれます。

江戸初期

・・・江戸時代に入ると、1,697年(元禄10年)に出版された本朝食鑑には、「当今、生麦を香ばしく炒り、むぎこがしを磨き、ふるいにかけて粉末にし、夏月、冷水を飲むとき、これを加えて練って服用している。砂糖を和して食べることもある」と記してあります。

江戸後期

・・・また、寛政~天保(1789~1844年)の世態の推移を書きとどめた寛天見聞記には、「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行燈を出し、往来へ腰かけの涼台を並べ、茶店を出すあり」。

これも、「近来の事にて昔はなかりし事なり」とあり、江戸末期には、麦茶を「麦湯と称して現代風に茶店で飲まれる」ほど、すっかり庶民に定着するようになっていました。

これは「麦湯の女」と呼ばれる14~15歳の女の子が、一人でも食事も何もなく麦湯のみを4文ほどで売るものでもありました(下記、浮世絵参照ください)。

大麦の収穫時期は初夏であり、獲れたての新麦を炒るのが美味であるため、夏の飲料として、愛用されてきました。(全国麦茶工業協同組合)。

写真:十二ヶ月の内 六月門涼 渓斎英泉(国立国会図書館所蔵)。

 

明治時代から

・・・明治時代に入ると、麦湯店が流行ると同時に庶民の家庭でも「炒り麦」を購入し飲用されるようになりました。

現代、冷やした麦茶の普及。

・・・昭和30年代に冷蔵庫とともに冷やした麦茶が普及し、冷やして飲む習慣が生まれました。

麦茶という商品も売られ始め、昭和40年代には日本全国で「麦茶」の名称が一般的に浸透してきました。

因みに、名称は太平洋戦争前に東日本は六条大麦を使用した「麦湯」西日本は裸麦使用の「麦茶」となっていました。

昭和38年に大型コーヒー焙煎機を輸入した会社が、それを利用して麦茶の大量生産を開始し、同年に日本初のティー・バッグ麦茶(煮出し専用)を発売しました。

1965年(昭和40年)には、水出しタイプとして初のティー・バッグ麦茶が発売されました。

1978年(昭和53年)には、大手食品メーカーが麦茶市場に初参入し、冷水用と煮出し用のティーバッグを同時発売しました。

1980年代には缶やペットボトル入りの麦茶が発売されたことによって、規模が小さかった麦茶市場が発展して、市場規模の拡大となりました。その後、濃縮液タイプの麦茶も発売されました。

現代において、麦茶を家庭で作る場合は、液状のものを用いて煮出すことは少なく、利便性・経済性が向上した煮出し・水出しのティーバッグを使用することが殆どであります。

これからの麦茶

・・・主流となった手軽な水出し麦茶から、近年では昔ながらの煮出し麦茶の味や香りが見直されてきています。

理由としては、しっかりと時間をかけて煮出した麦茶の味はひと味もふた味も違う為です。

特に粒を砕かない「まるつぶ」のタイプは雑味が出にくく、美しく澄んだ水色(すいしょく)が特徴です。

お手軽な水出しパックに比べると「香ばしさ・60%増」「うまみ・17%増」「香り・3倍増」のデータもある程です。

また夏場の飲み物としてでなく、ノンカフェイン、ミネラルが豊富な麦茶は冬場の水分補給にも最適で、香り高いホットタイプはさらに楽しんで頂けます。

シーズンに合わせて「煮出す麦茶」「水出し麦茶」「ホット麦茶」を使い分けて楽しんでみてはいかがでしょうか?(小川産業広報)。

麦茶の製法

原材料

・・・原材料である国産大麦は流通量が限られており、各企業でシェアしているのが現状。 希少価値の高い大麦を使用しています。

製法

・・・直火でじっくり煎られる麦は、まあるく美しい粒のままふっくらと 焼き上がる。大量生産には不向き。 伝統的な麦茶の製法だからこその仕上がりに。

  1. 1号釜へ麦と一緒に「珪砂」を入れ、250度の高温で1分。煎りの原理は石焼き芋と同じ。砂からの遠赤外線で麦を包み「爆ぜ」させ甘味・旨みを引き出す。
  2. 2号釜にてさらに150度で1分煎ることにより、香ばしい風味と色が付加される。丹念に2度煎りされる麦は一粒一粒、美しい形を残し仕上がる。
    絶妙な火加減で調整されることにより、まろやかな旨み、甘み、深みが凝縮されていく。
  3. 煎りあがった麦茶は大袋に詰められ、次の工程を待つ。 手間のかかる石釜製法にこだわり 本物の味を作り続け、次世代へと繋ぎます。(小川産業広報)。

<製造方法>会社によっては、高温で瞬時に煎り上げる「一度煎り」の方法をとる企業もあります(全国麦茶工業協同組合)。

麦茶の種類と楽しみ方

・・・シーズン・その日の気分に応じて、「煮出す麦茶」、「水出し麦茶」、「ホット麦茶」に加え、以下、炭酸・ラテ・ゼリー等で楽しんでいただけたらいかがでしょうか?(小川産業広報)。

麦茶の炭酸ジュース割(ビール感覚)

<作り方>

  • 材料:麦茶コップ1/2、レモンライム等のフルーツ適宜。
  • 麦茶をコップの半分まで注ぎ、炭酸飲料を注ぎます。お好みで、ライムやレモンなどを加えれば出来上がり。

麦茶ラテ(さっぱりしたカフェラテ風)

<作り方>

  • 材料:麦茶ティーパック1袋、水150ml、牛乳200ml、黒糖もしくはハチミツ 小さじ1.
  • ①、鍋に水とティーパックを入れ沸騰させ、弱火で10~12分ほど煮だし、黒糖を入れて溶かします。
  • ②、グラスの氷と①を入れ、牛乳を注いで軽く混ぜれば出来上がり。

麦茶ゼリー(コーヒーゼリーよりさっぱりした味)

<作り方>

  • 材料:麦茶ティーパック1袋、水800ml、ゼラチン10g、砂糖40g(お好みで調整)。
  • ①、鍋に水800mlを沸騰させてから、麦茶ティーパックを入れ5~10分煮だします。
  • ②、火を止めたら、2分ほど置き、ティーパックを取り出します。
  • ③、ゼラチン、砂糖を入れ、かき混ぜます。
  • ④、ゼリー容器に③を流し入れ、1時間ほど冷蔵庫でひやし固めて出来上がり。

麦茶の効能

体の熱を冷やします。

・・・麦茶には体温を下げる作用があるので、夏場に最適なドリンクです。 熱中症で体温が上がったときや夏バテで水分が不足したときにも効果的です。

血液をサラサラに。

・・・麦茶の独特な香ばしい香りはピラジン類という成分が関係しています。大麦を焙煎することでアルキルピラジン類が発生するのが香りの元です。

麦茶の香ばしい香りはストレスを和らげ、気分を穏やかにする効果が認められています。また、ピラジンを多く含む酵素は、血栓を溶解し、血液をサラサラにして血液の流れをよくする作用が知られています。

<ピラジン>麦茶の香りの成分であるピラジンによるもので、ピーマンや納豆の匂いの成分でもあります(全国麦茶工業協同組合)。

抗酸化作用で生活習慣病の予防効果ほか。

・・・大麦には、さつまいもの約4倍、お米の10倍以上の食物繊維が含まれています。食物繊維は水溶性と不溶性のバランスがよく豊富です。

特に大麦に含まれるβ―グルカンは、水溶性で粘性が特徴です。食物繊維の働きには、生活習慣病(糖尿病、高血圧、高脂血症等)の予防効果が期待できます。

また腸内環境を改善し、便秘の解消にもつながります。(小川産業広報)。

日本茶(昆布茶)、他。

・・・昆布茶の歴史は定かではないが、江戸時代には既にありました刻み昆布熱湯を注いで飲み、飲んだ後は出がらしとなった昆布を食べる。

いわゆる風味茶として好まれていました。それを手軽で簡単に日常生活に利用できないか。開発し工夫し生活に溶け込ませた創業者と二代目のお話です。

粉末昆布茶の歴史と創業者。

粉末の昆布茶登場はいつ。

・・・私たちがよく知っている粉末の昆布茶が登場したのは、1918(大正7)年の事。作ったのは、玉露園の創業者・藤田馬三(うまぞう)氏。

こんぶ茶はインスタント飲料の元祖でもあります。 フリーズドライのインスタントコーヒーの市販が1938(昭和13)年だから、それよりずっと早かったわけです。

1894(明治27)年、静岡に生まれた馬三は、若くして上京し、いくつかの職に就きました。

中でも貴重な経験となったのが、 薬種問屋(和漢薬を売る店)で覚えた薬の調合でした。ここで馬三は、薬研(やげん)という器具を使って薬を擦り下ろす技術を身に付けました。

その後、馬三は叔父が経営する食料品屋で働き、お茶の仕入れと販売のノウハウを習得しました。1916(大正5)年に独立し、東京・亀戸に茶補「静岡園」を開店した。

新しい味の昆布茶。

・・・馬三の才覚が発揮されるのはここからでした。店は持ったが、競争の激しいお茶屋業界で生き抜くには特別な何かが必要。 他店にない新しい味、それが昆布茶だったのでした。

江戸時代から連綿と続く昆布茶を、「味に工夫を凝らし、もっと簡単に飲めるようにすれば、昆布茶もコーヒーや紅茶のような嗜好品になるはずだ」と。

昆布茶を粉末にし、お湯に溶かして飲む──その当時それは、ほかの誰も思い付かなかい奇抜な発想でした。

昆布の材料探し。

・・・まずは味の良い昆布を見つけなければならない。馬三は東北、北海道、樺太(現ロシア連邦サハリン州)へ向かう旅に出て、海岸線沿いをくまなく昆布を探して歩いた

その結果、馬三は北海道知床岬の付近で採れる、羅臼産の昆布を使う事に決めました。ここで採れる羅臼昆布は、 繊維質が軟らかく香りが非常に良いのが特徴でした。

羅臼昆布は当時でもだしはもちろん、高級塩昆布や煮昆布としても使われる最高級品でした。

新製品開発成功!。

・・・東京に帰った馬三は昆布だしの採り方を研究し、最も飲み物に適した昆布を探し当てました。

その昆布を薬研にかけて粉末にし、更に塩、砂糖などの調味料の配合を検討し、 1918(大正7)年、ついに念願のこんぶ茶を作る事に成功しました。

新製品は大評判。

・・・最初は個人商店での細々とした商売でしたが、これが大成功。「今までの昆布茶よりずっと美味しい」「お湯を注ぐだけで飲めるのに、味わい深い」と、 その品質が高く評価されたのでした。

何よりも馬三を勇気付けたのは、お茶の好みがうるさい東京の人々に支持された事でした。

「玉露園」を開店。

・・・1923(大正12)年の関東大震災と1945(昭和20)年の太平洋戦争敗戦によって、大きな打撃を受けています。

しかしこの間、昆布茶だけでなく、 粉末茶の新商品「宇治グリーンティー」(後の「玉露園グリーンティー」)を販売しました。

更に1935(昭和10)年には「のり茶」を販売。 この頃になると同じような昆布茶を売る同業社もありましたが、既に玉露園は他社の追随を許さないトップメーカーとなっていました。

馬三の昆布茶にかける情熱。

・・・太平洋戦争の戦局が拡大し、様々な経済統制法が施行されると、当然ながら昆布茶も製造する事が難しくなりました。

多くの同業他社は代用原材料を使って品質の劣った製品を作り続けました。 それでも作れば金になるし、何も作らなければ会社は困窮します。

が、このとき馬三はこんぶ茶の製造をきっぱりと諦めた。 「今、信用を落としたら、戦争が終わった時に商売を再開できないかもしれない」そんな思いがあったのでした。

戦後、バラックのような小屋で馬三が再び昆布茶を作り始めた時、戦前戦中の得意先はこぞって歓迎してくれました。

「玉露園のこんぶ茶、只今入荷!」という貼り紙が小売店の店先を飾り、お客がどんどん集まりました。消費者もまた、玉露園のこんぶ茶との再会を待ち望んでいました。

うめ昆布茶のヒットと二代目。

・・・戦後の玉露園を牽引したのは、馬三の次男にあたる藤田英二(ひでじ)だった。馬三に厳しく商売の基本を叩き込まれた英二が社長に就任したのは1954(昭和29)年でした。

以来、次々と大胆な方策を繰り出し、会社を急成長させていきました。なかでも、「玉露園のこんぶ茶」というブランドを認知させるうえで最も効果が大きかったのが、ユニークな集中PR作戦だった。

例えば「今年はテレビとラジオで行く」と決まれば、新聞や雑誌などの紙媒体には一切広告を出さない。

逆に雑誌に出すと決まったら、新年号の婦人雑誌に付録として付く家計簿の全ての頁に、こんぶ茶の広告を入れるという具合。

広く薄くでは効果がない。範囲は狭くても着実にこんぶ茶を浸透させていこう」という独自の戦略だった。

英二が残したもう一つの大きな実績は、約35~40年前(正確な販売年は不明)に「うめ昆布茶」を開発し、大ヒットさせた事だろう。

開発にあたり、原料の梅には日本一の品質と称される和歌山産の梅を使用。この梅で作った梅干しを最新の設備で凍結乾燥し、こんぶ茶に加えて完成させた。

インスタントなのに梅の風味が損なわれていないところがポイントで、「うめ昆布茶」は発売早々評判を呼び、その人気は今も変わらず続いている。年代によっては、こんぶ茶よりもうめこんぶ茶の方が売れた年があるといいます。

昆布茶の効能

・・・昆布には、ぬめりのもとになる食物繊維のひとつ「アルギン酸」が含まれており、健康維持が期待できます。

アルギン酸は摂取すると満腹感が長時間得られ、体内に吸収されにくいという性質を持っています。

そのため、摂取カロリーを抑えてダイエットしたいと思っている方にもぴったり。空腹を感じたら、昆布茶を1杯飲むと空腹が和らぎます。

海藻にはミネラルが豊富なイメージがありますよね。昆布も海藻なので、カルシウムやカリウムなどのミネラルが豊富に含まれています。

また、人間に必要不可欠なミネラルのひとつであるヨウ素(ヨード)の含有量は、食品の中でもトップクラスです。基礎代謝の向上が期待できますよ。

昆布茶はノンカフェインなので、カフェイン摂取を控えている方や、眠る前にちょっと温かいものを飲みたいと思ったときにも飲みやすいでしょう。

昆布茶の種類

・・・昆布茶には、昆布のみで作られている昆布茶と、梅・唐辛子・金粉などが混ぜてある昆布茶があります。

特に梅が含まれているうめ昆布茶は人気が高く、バリエーションも豊富です。金粉入りは見た目にもゴージャスで、お祝いの席(福茶)やお土産にも利用されています。(玉露園HP)。

昆布茶の活用

・・・粉末タイプの昆布茶なら料理にも利用可能!塩の代わりにかければ、昆布だしの風味を加えることができます。

卵に混ぜてそのまま焼くだけで、おいしいだし巻き玉子を作ることもできるのもうれしいポイントですね。

料理への活用レシピが公開されています。なかでも「日本風」のパスタ料理には相性が良く、様々な種類のレシピが紹介されています。

そのほか、みそ汁、おにぎり、など家庭で重宝されており、プロの料理人にも隠し味として愛用されています。

 

その他

寒茶づくり

・・・1月20日の大寒を前に、厳冬期の茶葉を摘み取り製茶して試飲する催し「寒茶づくり」が、岡崎市八ツ木町のおかざき自然体験の森で開かれました。

同施設職員の竹内信二(61)によると、冬になると寒さをしのぐために茶葉がでんぷんや糖分を蓄えるため、まろやかな甘みが感じられるという。

イベントには市内外からの20人が参加し、敷地内の茶畑で栽培している茶葉を枝ごと収穫。

せいろで50分ほど蒸した後、網の上に広げて枝などを取り除き天日干しにしました。

一部の茶葉は参加者が持ち帰り、完全に乾燥した後で味わうことにし、会場で用意された茶葉で寒茶を堪能しました。(2022/1/16日付、中日新聞)

写真:蒸した茶葉から枝などを取り除く子供たち。

 

コンブチャ

・・・欧米では健康志向の人たちに人気の飲み物「コンブチャ」が日本でも徐々に認知度を高めています。

昆布茶とは全く別物。名前の由来ははっきりしないが、お茶に酢酸や砂糖を入れた発酵飲料だ。

愛知県内唯一の専門店「プラスコンブッカ」(千種区東山通4)の菊池陽介は「美味しい飲み物だと知ってもらえるよう知名度を上げたい」と話す。(2022/2/18、中日新聞)。

コンブチャは緑茶や紅茶、ウーロン茶などのお茶をベースに、酢酸菌や酵母菌、砂糖を入れ、5~10日間発酵させた飲み物。

レモンやイチゴなどの果物を漬け込むと、さらにフルーティーな味わいが楽しめる。

欧米では2000年代以降、モデルなどが愛飲したことで人気に火が付き、今ではスーパーに様々なフレーバー(風味)がそろったコンブチャのコーナーができるほど市民権を得ている。

一方、日本では醸造所や専門店は少なく、認知度はそれ程高くない。

菊池さんの店では、週替わりで季節の果物を用いたフレーバーをつくり、炭酸水で割って、ワイングラスで提供している。

今なら、かりんやイチゴ風味などがあり、一杯500円~700円。「甘すぎないため、料理との調和がとりやすい。カクテルの割り材として用いられることもあります」と菊池さん。

ウォーキングやヨガなど運動に親しむ健康志向の女性客が多いという。

菊池さんは2015年に、いとこが住んでいたオーストラリアでコンブチャに出会った。

「家庭で手作りされた品だったが、毎日飲んでいるうちに好きになっていた」。作り方を教わると帰国後は自分でも仕込むようになった。

「日本ではまだまだ市場も小さい。どこでも飲める環境を作っていきたい」と、勤務していた広告代理店を退職し、2019年に同店を開業した。

最近では大手食品メーカーのキューピーと連携して、酢酸菌の持つ効能を啓発するワークショップを開催するほか、今春には醸造設備を増強して販路拡大を目指していく。

菊池さんは「コンブチャが美味しいものだと知って欲しい。あらゆるところで楽しめるようになれば」と話している。同店:TEL052-898-4037.

昆布茶とは全く別物ですが、お茶に酢酸や砂糖を入れた発酵飲料で、同じ嗜好品と言う意味でその他として取り上げました。

日本茶(緑茶)、歴史・製法・種類のまとめ

・・・中国原産の茶葉を用いた、紅茶・プーアル茶・ウーロン茶、そして「緑茶」だけが”お茶”だという説もあります。

しかし日本人は、おもてなしの精神で代々にわたり、より良いお茶づくりを目指し、たゆまぬ創意工夫によって現在の「緑茶」を作り出しました。

そして、同時にお茶をたしなむその事を文化としてとらえ、麦茶も昆布茶もお茶と呼び、他にもたくさんの”お茶”を仲間にしました

日本茶を記事にする前は、日本茶と言えば緑茶を思い浮かべました。今は、麦茶も昆布茶もその他のお茶も、立派な日本茶の仲間だと確信しています。

シニアにとって緑茶も麦茶も健康に良いことを再認識させられました。昆布茶は塩分の取りすぎに気を付けましょう(笑)。

現在日常的に我々が口にしている緑茶、麦茶、昆布茶これも日本人のたゆまぬ創意工夫による産物だったのですね。

既にご存じの事ばかりで退屈だったかもしれませんが何か一つだけでも、へ~そうなんだ、と思う事がありましたら幸いです。

最後までご覧いただき有り難うございました。