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出雲大社・古代出雲歴史博物館・その他

 

・・・出雲大社に祀られる大国主大神様は「〝縁結び〟の神様」として古くから信仰されていますが、

これは単に男女のご縁だけではありません。人々を取り巻くあらゆる繋がりのご縁です。

広く人々と幸せのご縁を結んで下さる縁結びの神様です(出雲大社)。

山陰旅行で出雲大社・古代出雲歴史博物館を訪れ、いろんな発見・驚きがあり、この記事が参考になれば幸です・

出雲大社

・・・観光ツアーでは、駐車場でバスを降りてまず神楽殿に立ち寄りました。

そこで神楽殿に吊るされた「大しめ縄」と日章旗が翻る白い国旗掲揚搭(47m)。

この高さは、古代出雲大社に存在した神殿の高さで、神殿を支えた柱の一部が2000年に発見されました。

詳しくは次項の古代出雲歴史博物館に掲載しましたので御参照ください。

神楽殿

・・・神楽殿は本来、千家國造家(こくそうけ=出雲大社宮司家)の大広間として使用されており「風調館」と呼ばれていました。

明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、

御祈祷結婚式をはじめ様々な祭亊行事が執り行われています。

国旗掲揚搭と日章旗

写真:47mの国旗揚搭と日章旗75畳。奥が神楽殿。

神楽殿に吊るされた「大しめ縄」

写真:神楽殿に張られた大しめ縄。長さ13m、重さ5.2トン、数年に一度架け替えられる

 

出雲大社

正式な呼び名は「いずもおおやしろ」参拝は二礼四拍手一礼。

拝殿

拝殿のおくに御本殿が配置。西側へ回ると御本殿に近い参拝場所があります。

御本殿

現在御本殿(写真右)は、1744年に造営。拝殿のみでも良いが、よりご本殿に近い八足門や、

神殿と向き合えるご本殿の西側からの参拝がおすすめ(JAF情報)。

写真:写真右が現在の御本殿。写真奥に神楽殿前に翻る日章旗が見えます。

 

裏正面、境内からの展望

裏正面、境内のオブジェ

出雲大社造営起源

・・・『古事記』や『日本書紀』の神話伝承には、大国主大神様が国づくりされた日本の国土を、

皇室の御祖先神である天照大御神様に〝国譲り〟された際、そのご功績を称えて、

壮大な御神殿(御本殿)が創建され、大国主大神様がお鎮まりになられた(出雲大社)。

国譲り前

国譲り〟以前には、大国主大神様の妻神の須勢理比売神様の父神にあたる須佐之男神(素盞嗚尊)様から、

「須勢理比売神様と一緒に壮大な住まいを建て仲良く暮らしなさい」。

との命じごとが大国主大神様になされていますので、

それ以前にも立派な建物にお住いであったことが伝えられています。

このように、出雲大社創建は遥か神代の時代に遡り、

大国主大神様の尊い御神徳を称えて壮大な御神殿(御本殿)が築かれたのです。

出雲大社の祭祀

日本神話からの言い伝えから天照大神の子の天穂日命(あまのほひのみこと)を祖とする、

出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されています(出雲大社)。

「遷宮」

現在の御本殿はじめ境内の摂社・末社は延享元年(1744)の御遷宮の時の造営で、

それまでは遷宮年のたびに隣地に建て替え造営が行なわれ繰り返されてきましたが、

以後の遷宮年は御修造による遷宮としています。ことに、近代以降は、

歴史的文化財建物「国宝」指定され、後世に伝える重要な使命をもって御修造遷宮を行なっています。

このご遷宮とは、ただ単にご神殿の佇まいを新たにするということではなく、

それによって神様の御力が清新に若々しく蘇るー蘇生再誕をされるという重要な意味合いがあります。

その御力を祈り、私たちも幸せのための

生き直しの蘇生再誕〟のご縁に結んでいただくのです(出雲大社)。

さざれ石

この石は通称「さざれ石」と言われ岐阜県春日村の産、

古今集に天皇の大御代の弥生を寿ぎ祈りこの石の如くましませんと詠われた後に一部改作されて日本の国家となりました。

学名は石灰質角礫岩(せっかいしつれきがん)

長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を集結して次第に大きく成長したもので誠に目出度い石であります。

古代出雲歴史博物館

・・・古代出雲歴史博物館、中央ロビーでまず目に入るのは!身長越え周囲3m!の黒く焼け焦げた巨木に驚かされます。

重要文化財 宇豆柱と心御柱

発見経緯

重要文化財「宇豆柱と心御柱」は、出雲大社境内に於いて、

出雲大社宮司の千家国造家が計画した、地下通路の設置に基づく工事中に偶然発見されました。

木材が存続した理由

拝殿は過去8回倒壊と再建を繰り返したが、鎌倉時代に唯一火事が原因で倒壊しました。

燃え残りの状態のまま地中に埋められた柱の根元は、長年の風雨でも浸食されずに保存されました。

その後、近年(2000~2001年)発見するに至った(ボランティアガイドの説明)。

*宇豆柱とは

棟持柱の事で、古くから宇豆柱(うずばしら)と呼ばれてきた(ネット情報)。

写真:重要文化財「 宇豆柱と心御柱 」。

発見状況

出雲大社境内にて巨大な柱が3か所で発見されました。

一本の直径が約1.3mのスギ材を3本組にしたもので差し渡し約3mもあります。

柱の配置や構造は、古の巨大本殿設計図とされる「金輪御造営差図」に描かれたものと類似。

柱を埋めた大きな穴には、一抱えもあるような大きな石がぎっしりと詰めてありました。

このような柱の地下構造は、史上最大で世界に例を見ないものです(博物館キャプション)。

金輪御造営差図

柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家に伝わる史料、

いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」。

9本描かれている柱の内、真ん中に描かれているのが「心御柱」です。

金輪御造営差図に加え、「心御柱」の焦げ跡の発見により、巨大で超高層拝殿の存在が確定されました。

写真:金輪御造営差図(宇豆柱)だけでも、三本一組が九か所なので計27本使用。

 

出雲大社は超高層神殿

写真:古代に高さ48mあったとされる出雲大社本殿の模型(1/10)サイズ。

雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)とは

平安時代中頃(970年)に書かれた貴族子弟の教科書「口遊」には、

当時の大きな建物として、出雲の大社大和の大仏殿京の大極殿を差します。

当時大極殿の高さは15丈(45m)あったとされます。出雲大社はそれ以上の高さを誇ったのでしょう。

伝承では、かっては16丈(48m)の高さがあったともいい、古代に超高層神殿が存在した根拠の一つとされています。

個性豊かな出雲の埴輪

・・・個性豊かな出雲の埴輪として、展示中の埴輪。奥出雲町常楽寺古墳(県指定文化財)、古墳時代(6世紀)。

写真:左から男子像埴輪(鍔付き帽子)・女子像埴輪(髷で頭を覆い供物を捧げ持つ)・馬型埴輪。

銅鐸

・・・弥生時代の人々が農作物の五穀豊穣を願うお祭りの道具として、使っていました。

形の変化

弥生時代前期に造り始められた頃、形は小さくひもで吊り下げて鳴らす「聞く銅鐸」でしたが、

時代と共に大きくなり、飾もきらびやかになり「見る銅鐸」に変わっていきました。

埋納抗の銅鐸

埋納抗に残る銅鐸が外れた痕や、銅鐸に付着した土や錆の状況から、埋納時の様子を再現したものです。

全ての銅鐸は鰭(ひれ)を立て、横倒しの状態で埋められており、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸をはめこんだ「入れ子」になっています。

わずか1×2mほどの穴に、多くの銅鐸がコンパクトの納められている。

写真:埋納時の様子を再現。本物の銅鐸(国宝)も展示されています。

 

出土銅鐸(国宝)

加茂岩倉遺跡出土銅鐸

 

銅鐸埋納の謎

古代史最大の謎は邪馬台国ですが、銅鐸がなぜ埋められたかのかも大きな謎です。

世の中が平安でありますように?次のお祭り迄保管しておこう?あるいは、大陸で政変が起きてしまい、

新政権に見つからないように埋めておこうだろうか?疑問は尽きません(ネット情報に同感です)。

青銅器と黄金の太刀

見る者を圧倒する国宝の青銅器群や卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡。

そして古墳時代の豪華な装飾太刀。これら歴史的な発見の数々を通して、古の島根の謎と実像に迫ります(パンフレット)。

写真:黄金の太刀(パンフレットに紹介)。

 

写真:展示室天井まで黄金の太刀を展示中(常設展)。

 

島根の人々の生活と交流

島根の歴史と文化を特徴づける「四隅突出型墳丘墓」、「出雲の玉造」、「世界遺産 石見銀山」、

「たたら製鉄」を中心に、古代から現代に至る島根の人々の生活と交流の歴史を紹介します(パンフレット)。

写真:(左)出雲国風土記、(右)上野1号噴出玉類。

郷土出身力士

雷電為衛門は松江藩お抱え力士で21年の力士生活で10敗(254勝)しかしていない強豪力士。

千田川吉五郎(せじがわきちごろう)も松江藩お抱え力士で後に玉垣額之助のしこ名で大関、

柏戸(宗五郎)は雷電に勝った力士の1人で後に大関になっている。

写真:(奥から)雷電、千田川、柏戸(展示版画作品)。

 

その他

・・・出雲大社を訪れた機会に同大社と神話の国譲り物語が気になり、神社本庁の情報を調べてみました。

神話、国譲り物語

天照大御神あまてらすおおみかみさまは、孫の瓊々杵命ににぎのみこと豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを治めさせようと考えられ、

建御雷神たけみかずちのかみ天鳥船神あめのとりふねのかみに命じて、様子をうかがわせてみました。

二柱の神は、出雲の国稲佐いなさの浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

浜の中央に鎮座する弁天島。かつては弁財天を祀っていましたが、現在は豊玉毘古命が祀られています。

写真:浜の中央に鎮座する弁天島。かつては弁財天を祀っていましたが、現在は豊玉毘古命が祀られています(出雲観光ガイド)。

そしてこの国を治めている大国主神おおくにぬしのかみに、この国を天神あまつかみ御子みこに譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、

この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。

大国主神には、事代主神ことしろぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみという二柱の子供がいましたが、

そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。

そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。

建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。

これはたまりません。建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました(=現在の諏訪大社)。

さて、このことを大国主神に告げると、大国主神は自分が隠れ住む宮殿を、

天神の住む宮殿のように造ることを願いそこに移り住むことにしました。

こうして出雲の国は、天神の御子瓊々杵命に譲られたということです。

※「日本書紀」では、建御雷神と経津主神ぬつふしのかみが天降り、豊葦原水穂国を平定したといわれています(神社本庁)。

出雲大社・伊勢神宮・春日大社の関係

・・・ここでさらに出雲大社・伊勢神宮・春日大社の関係など、ネット情報を整理してみました。

前述の如く伊勢神宮の祭神(天照)の使者である武神(タケミカヅチ)は、

出雲大社の祭神(大国主)に国譲りを迫りました

大国主の息子(タケミナカタ)を力くらべで打ち負かした武神(タケミカヅチ)は鹿島神宮の祭神でもありました。

鹿島神宮から奈良時代に分祀されたのが春日大社です。

その際、武神が白い鹿に乗って奈良の地にやってきました。

そのため春日大社の周辺には奈良公園をはじめ1233頭(2023年7月調査)の鹿が生息しています。

なぜ天皇出雲大社入れないのでしょうか?

出雲大社の宮司には、日本神話からの言い伝えから天照大神の子の天穂日命(あまのほひのみこと)を、

祖とする出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されているとのこと。

なので、今でも天皇陛下でさえ、出雲大社の本殿内には入れないしきたりのようです。

「大国主大神」と「だいこくさま」

大国主大神とだいこくさまは同じ神様ですか?には、同じ神様です。

他にも「大己貴神(おおなむちのかみ)」、「大物主神(おおものぬしのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、

「大国魂神(おおくにたまのかみ)」、「顕国魂神(うつしくにたまのかみ)など多くの御神名があります。

ただし、いわゆる〝七福神〟の中の「大黒天」とは、正確には別の神様です(神社本庁)。

出雲大社・古代歴史博物館のまとめ

・・・出雲大社・古代出雲歴史博物館を訪れると必然的に、日本神話及び古代日本を意識するようになります。

伊勢神宮と出雲大社と春日大社以外、国譲りで敗走したタケミナカタは諏訪神社に祀られているなど、

神話の世界は、現実とバーチャルの混ざった直ぐに想像できない新しい不思議な感触を味わいました。

古代出雲博物館では、神を祀る神殿を支える巨大な柱を人力で作り上げた超高層神殿。

刀剣、銅鐸の埋納、埴輪それらに施されている複雑模様を見る度、

古代の日本人がいかに優れた民族であるか誇らしく感じました。

今回旅行コースは、姫路城・鳥取砂丘・足立美術館・出雲大社・古代出雲歴史博物館と見どころ満載でした。

後期高齢ながら、なんとか全コースを歩くことが出来た体力に感謝の旅でした

最後まで読んでいただきありがとうございました。