社会

名古屋市緑区散策(歴史編)、史跡・特徴的な町並み・社寺

名古屋市緑区散策(歴史編)

緑区の誕生

・・・緑区は昭和38年4月1日に愛知郡鳴海町が名古屋市と合併し、名古屋市で14番目の行政区として誕生しました。

翌39年12月1日には知多郡有松町大高町が合併しました。

緑区という区名は、この地域が緑豊かな丘陵地帯で、住宅適地として脚光を浴びていることなどの理由で決定されました。

また、鳴海を生涯で4回訪れたことのある松尾芭蕉が、「初秋や海も青田の一みどり」という句を詠み、

その句の「一みどり」が緑区の由来になったという話もあります。

<伝統産業・史跡・町並み>

鳴海・有松には伝統産業として390年余の歴史を持つ<絞り>があります。

また、桶狭間古戦場大高城跡俳人芭蕉ゆかりの史跡など、古い時代をしのぶ旧跡が多くあり、

旧東海道の面影を残す有松の格子づくりの町並みは、市の町並み保存地区の第1号として指定されています。

史跡、桶狭間

・・・名古屋駅西口、織田信長と今川義元のモニュメントが飾られていいます。

写真(2023/2/25、名古屋駅西口にて):「近世の曙」と題して、(左)槍を持つ信長と(右)弓を持つ今川義元のモニュメント。

桶狭間の場所

地図:桶狭間(名古屋市緑区と豊明市にまたがった地域)。

<戦場>

日本史の中でもよく知られている、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」の舞台は、名古屋市緑区と豊明市にまたがった地域です。

永禄3(1560)年5月19日、大雨の中を信長が戦いを挑み、味方の10倍もの大軍を率いていた義元を破ったという話が有名です。

勝利した信長が全国統一に向けて勢いをつけていったという点で、

近世という時代の幕を開けた出来事ともいわれるようになりました。

<参考:現在の桶狭間>

義元が信長に討たれたといわれている地は、桶狭間古戦場公園として整備されました。

平成22(2010)年、桶狭間の戦いから450年の節目としてさまざまな催し物が企画され中で、

進軍路を体感できるように古戦場公園をジオラマ化する改修や、

多くの人からの寄付と協力で設置された信長と義元の二人の銅像「近世の曙」などが桶狭間の新たなシンボルとなりました。

<桶狭間の地名>

桶狭間は戦いに敗れた南朝の武士が、この地の山間の洞のようなところに隠れ住み、

世の中が平穏になってから村として開墾したのが始まりとされ、「洞迫間」と呼んでいましたが、

低い丘に囲まれて桶のような地形から「桶迫間」となったともいわれています。

なお、現在の「桶狭間」の地名は、明治11(1878)年の制度改正によってつけられたものです。

桶狭間の戦いのころは、約15~20戸、70~80人ほどの村であったのが、

明治8(1875)年には80戸382人になり、耕地面積も終戦のころまで大きな変化はなかったといわれています。

近年、区画整理事業が行われて住宅地が増えるとともに、町名変更が行われたことで昔ながらの地名がだんだん少なくなってきています。

<桶狭間古戦場まつり>

この地域の特徴的な祭礼としては、5月19日に近い日曜に行われる桶狭間古戦場まつりがあります。

古戦場公園、七ツ塚、戦評の松の前で供養が行われるほか、講演会やガイドツアーなどの催し物が企画されています。

夜、大池のまわりに約3,500本のろうそくに灯をともして戦死者を弔う万灯会は幻想的な風景をつくり上げています。

10月には、桶狭間神明社の祭礼があります。寛文10(1670)年ころから行われており、

有松に天満社が創立されるまでは有松の祭りでもありました。現在は、南町、中町、北町、西町の町内から、

それぞれ傘鉾や獅子頭を連ねて神明社に向かって出発し、にぎやかなお囃子とともに無事を祈願しています。(引用:名古屋市資料)。

桶狭間の戦い(戦闘経緯)

【戦闘経緯:信長公記より

1560年(永禄3)5月19日、織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現、名古屋市緑区有松町)を含む丘陵地帯で敗死させた戦い。

1550年代、三河を勢力圏内に組み入れようとして尾張の織田氏と対立していた今川氏は、調略(=策略)によって尾張鳴海城を奪取。

これに対して信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦を築いて封鎖した。

鳴海城の南にある大高城も鷲津砦・丸根砦を築き抑えとした。

1560年5月、義元は鳴海城の確保と織田軍の撃破を目的として出陣、

19日に鳴海城外の桶狭間山に本陣を置いた。

今川軍は早朝から織田軍の砦群を攻撃、鷲津砦・丸根砦を攻略、

昼頃に戦場に到着した信長は、温存していた主力を率いて今川軍を正面から破り混乱に乗じて義元を倒した。

この結果、今川氏は衰亡へ向かい、信長は美濃の斎藤氏対策に専念、

徳川家康は今川氏との服属関係を断って信長と同盟するに至った。

以上戦闘経緯は、信長の家臣太田牛一(おおたぎゅういち)の「信長公記(しんちょうこうき)」に詳しい。

 

【戦闘経緯:後世創作説】

この戦いを、天下を目指して上洛途上の義元を、信長が豪雨の中、善照寺砦から大きく迂回し、

田楽狭間の窪地に休息する義元の本隊を丘の上からの奇襲で倒したもの、

とする有名な説には史料的な裏づけがなく、後世の創作とみられる。

(藤木正行著「信長の戦国軍事学」1998:宝島社)。

 

桶狭間と民話

今川義元に関する民話

織田信長が熱田神宮に戦勝祈願をし、桶狭間で見事に今川義元を討ち果たし勝利を収めました。

それに関する民話がこの地方にあり、今川義元の供養松「戦評の松」として桶狭間に祭られています。

確認のため再度掲載:戦場の松(=今川氏の供養塔)。

<民話の内容>

昔、今の刈谷市にウナギ屋がいた。桶狭間の大池にある大きな松の木の前を通ると、

熱田での朝市に丁度良いころに着くのでいつもそうしていた。

ある夜、松の下で白いものが、ぽわん、と動いていた。

よく見ると、白馬にまたがった今川義元の姿だった。

この日、旧暦五月十九日は今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に打たれた日だった。

ウナギ屋がくぎ付けになっていると、「わしの姿を見たな。

よいか、誰にも言ってはならぬ」と言い、今川義元の亡霊は消えた。

その日以来ウナギ屋は、顔いろも悪くなり元気がなくなってしまった。

その姿を見た仲間が「オレにだけでも話を聞かせてくれんか」と声をかけた。

ウナギ屋はその言葉に気が緩み、十九日の出来事を話し始めたところ、高熱に浮かされまもなく息絶えた。

村人はこれを義元のたたりだと恐れ、松を供養した。以上がこの地方に伝わる民話です。2021/10/17、中日新聞。

写真:織田信長(左)、今川義元の銅像(名古屋市緑区桶狭間古戦場公園)

戦評の松(名古屋市緑区)

「桶狭間の戦い」で今川義元の武将、瀬名氏俊がこの松の下で作戦評議をしたので、”戦評の松”と呼ばれています。

瀬名氏俊は、今川義元の義弟で厚い信頼を置かれた人物。

桶狭間では本陣の設置や軍路の制定を任された。

合戦当日は、進軍予定の大高城に向かっていたため生き延びたが、その後世を示す資料はほとんど残っておらず謎に包まれている。

現存の松は三代目。初代は「一本松」「大松」と呼ばれ愛されていたものの、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の際に倒れた。

写真:初代戦評の松

 

その後植樹された二代目も2008年に枯れてしまった。翌年、市教委により現在の松が植えられた。

他にも義元を題材にした民話は数多くあると話す。

「私たちはホタルは駿公(義元の愛称)の魂だと考えているため捕まえません」。

都に向かう今川軍のすがたに重ね「氏ボタル」と呼び、大切にしています(桶狭間古戦場保存会、梶野幸男談)。

写真:戦評の松の民話について話す梶野さん。

 

桶狭間古戦場公園のジオラマ

・・・桶狭間古戦場公園に設置されたジオラマ体験記が、新聞に記載されていましたので紹介します。

写真:石や水の庭園のようなジオラマ。

桶狭間古戦場公園(ジオラマ)を歩く

同合戦が行われた5月19日を前に、桶狭間古戦場保存会理事長の梶野泉さん(71)と同公園のジオラマをたどりながら歩いてみました。

同公園は桶狭間の戦いの中心地とされている場所にあります。敷地内の南側は、

城や砦などを石で、遠路は街道、流れは川、池を海に見立てたジオラマ式の公園(1800平米)になっています。

ジオラマとは実際の地図を模型的に配置するもので、ここでは北は清洲城から南は桶狭間大池まで、

東西は大高城から沓掛城まで、同戦いの舞台を網羅し、各軍の進軍路も表現されています。

梶野さんの案内で、「まず、信長の進軍路を」たどってみることに。

清洲城を出発熱田神宮で戦勝祈願後、現在は砦公園(鳴海町砦)として整備されている善照寺砦に到着。

先鋭の兵隊2000人を率いて義元のいるであろう桶狭間へ向かう、というのが信長の進軍路。

一方、2万5000人の大群を率いて駿府城から沓掛城へ入城し、「おけはざま山」本陣に入るー、

この義元の進軍路や桶狭間山もジオラマで表現されています。

梶野さんは桶狭間古戦場観光案内所でボランティアガイドも務めていて、

「観光客によく聞かれるのは、なぜ信長が大軍を率いる義元を打ち破ることができたのか」という謎。

諸説ありますが、勝因を「まず信長の率いた2000人は先鋭の鍛えられた兵隊であり、

それまでに幾度となく戦いに参加し、戦い慣れていたこと。

次に野戦を駆け回っていた信長が地の利に詳しかったことだと考えています。

「ジオラマを通して桶狭間の戦いがこの緑区で行われたことをもっと知ってもらえたらいいですね。(緑区ホームサービス紙・2020/5/9日、中日新聞)。

特徴的な町並み

大高

写真:宮簀媛命の住まいの跡に氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)が創建されました。

氷上の里

大高の歴史は古く、『古事記』に東国征伐を終えた日本武尊が、宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妻にし、

仲むつまじく暮らしたという「氷上の里」の記述があります。

宮簀媛命が日本武尊から預かった草薙の剣を、大切にまつろうと社を造りました。この社が熱田に移され熱田神宮になりました。

そして、宮簀媛命の住まいの跡に氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)が創建されました。

またその近くには、日本武尊が波の音で目覚めたという逸話から、「寝覚の里」として石碑が建てられています。

この地域の祭礼は、3月の太々神楽や6月の御田植祭など、

氷上姉子神社のものを中心としてさまざまな祭りが行われています。

氷上姉子神社

<熱田神宮創祀にゆかりの深い古社>

日本武尊のお妃・宮簀媛命(みやすひめのみこと)をお祀りしております。

日本武尊なきあと、この地で祀っていた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を遷して創祀したのが熱田神宮の始まりとされ、

現在は名古屋市緑区大高町の氏神様として親しまれております。

 

<氷上姉子神社の遷座>
仲哀天皇の時代に創祀後、持統天皇四年(690)、現在地に遷座致しました。

故地は宮簀媛命の父神の館があった地とされます。この地は往古、火上の里とよばれていました。

永徳3年(1382)、社殿が火災にあったため火の字を避けて「氷上」と改め、火高は「大高」に改めたとされております。

<草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)>

日本武尊なきあと火上の里にとどめおかれた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)は、

尾張氏の祭祀場所であった熱田に遷しお祀りされました。

氷上姉子神社は、隆盛を誇る熱田神宮の創祀に最もゆかりの深い社です。

現在の本殿は明治26年に別宮八剣宮の本殿を移したものです。(引用:熱田神宮)。

催事・行事

ご祭神 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
祭事・行事 3月最終日曜日 太々神楽
5月6日 頭人祭
6月第4日曜日 大高斎田御田植祭
9月28日 大高斎田抜穂祭
10月第1日曜日 例祭
鎮座地 名古屋市緑区大高町火上山1-3
住所 名古屋市緑区大高町火上山1-3
電話 (052)-621-5935

大高城と桶狭間

大高には神話の時代から続く史跡が残っていますが、「桶狭間の戦い」で歴史に登場した場所もあります。

松平元康(徳川家康)が今川義元の軍勢に属し、敵前で兵糧を運び込んだ(令和5年1月8日、NHK大河ドラマ第一回放送)大高城跡や、

織田信長によって築かれた鷲津砦や丸根砦の跡があり、これらはいずれも昭和13(1938)年に国指定の史跡となりました。

その周辺の道路は細く、十字路がない構成になっており、城下町の特徴が現代まで残されています。

このような歴史の古い大高に、明治19(1886)年に武豊、熱田などとともに県内で最初の鉄道駅として大高駅が開業しました。

高架化や新幹線工事などを経て現在の形になり、近年は区画整理が進み、南大高駅が完成しました。

南大高駅の周辺では大規模商業施設や病院が建設され、住宅地の整備が進んでいます。

酒蔵

<密集した3軒の酒蔵>

江戸時代に、二代尾張藩主・徳川光友の奨励によって、城下の酒造りが盛んになりました。

主な産地は知多半島に集中し、江戸では灘酒と消費を二分するほどの人気を博したといわれています。

現在ではほとんどなくなってしまいましたが、大高には萬乗醸造・神の井酒造・山盛酒造の蔵元3軒が徒歩5分以内の地域に密集しています。

これは東海地方では他に飛騨高山に例を見るくらいで、大変貴重な地域です。

 

<酒蔵開き>

例年2月には、神の井酒造と山盛酒造が酒蔵を開放して、

見学や試飲ができる酒蔵開きがあり、多くの人でにぎわいます。(引用:名古屋市資料)。

鳴海

遺跡:貝塚

写真:「雷(いかづち)貝塚」、現在は住宅地。
<雷(いかづち)貝塚>

鳴海小学校の北側、カトリック鳴海教会の裏手の住宅街に、ぽつりと「雷(いかづち)貝塚」という標札が建っています。

現在は周辺が宅地化され標札しか残っていませんが、ここには昭和2年野村三郎氏により発見された縄文時代後期の遺跡がありました。

先史の人たちは貝類(主にハマグリ)を常食としていて、ゴミとして出る大量の貝殻をこのあたりに捨てていました。

貝殻の他、縄文土器、獣の骨(鹿やイノシシ)、人骨、やじり・石斧などの道具類が大量に出土しています。

鳴海には縄文時代から多くの人々が生活しており、雷(いかずち)貝塚などの遺跡が点在しています。

遺跡:古墳

市バスの伝治山停から徒歩5分の大塚古墳と赤塚古墳跡を訪れてみました。

古墳は、3世紀から7世紀にかけて日本各地に造られた天皇家をはじめとする豪族の墳墓です。

自分たちの領域を見渡せるような高台に築かれることが多いのですが、

大塚古墳も赤塚古墳も、今は新しい住宅に囲まれてしまっています。

しかし松が根台にあった大根古墳のように、宅地化で消滅してしまったものもあるので、形だけでも残っているのはうれしいことです。

写真:大塚古墳、入り口が分かりにくいので標識に注意。

大塚古墳は、昭和5年に発掘調査が行われ、古墳時代後期(7世紀ごろ)のものと考えられています。

直径は約20メートル。今は高さ3メートルの土が盛られていて、当時の円墳の姿が再現されています。

 

写真:元は円形だった赤塚古墳跡。

大塚古墳から50メートルほど離れたところにあるのが赤塚古墳跡。古墳の規模も造られた時期も大塚古墳と同じころと推定されています。

こちらは玄室の石組(約3メートル×2メートル)が露出しています。

文化年間(1804~18年)に発掘されたという記録が残っていますが、

昭和5年に際発掘された時には、人骨や金輪、銀環などの副葬品も見つかっています。

両古墳とも、埋葬されていた人は不明ですが、金銀の装飾品を見に着けて眠っていた人は、

周囲の変化をどう思っているのでしょうか。(古墳写真:緑区ホームサービス紙・2020/5/9日付、中日新聞)。

 

<宿場町>

古くは鎌倉街道に沿った古鳴海、相原郷などの町が栄えていました。

江戸時代となり、慶長6(1601)年に東海道が整備されたことによって、江戸から数えて40番目の宿場となりました。

鳴海には、大名などが宿泊や休息に利用する本陣・脇本陣のほか、一般の旅人が宿泊する旅籠が、

作町、根古屋、本町に集まり、最も多かった天保時代(1830~44)には60軒以上の旅籠があったといわれています。

宿場の役割には物資の輸送もあります。公の人馬の乗り換えを扱う問屋場が花井(西問屋場)と、

本町(東問屋場)の2カ所にあり、それぞれ鳴海の旧家がその職を担っていました。

現在の町並みでは、古い部分はほとんどなくなってしまいましたが、

緑生涯学習センター東側でクランク状になった曲尺之手など、わずかに残った道の形などから歴史をしのぶことができます。

鳴海宿には法度などを民衆に周知する制札を設置するための高札場が、現在の本町交差点の角にありました。

平成21(2009)年に庚申坂に復元され新しく書き写された5枚の札が掲げられています。

当時の高札は名古屋市博物館に保存展示されています。

社寺が多い町

鳴海には日本武尊にゆかりの神社があるほか、古くは室町時代に創建されたとされる寺院などが、

現在も鳴海12ヶ寺として残っています。(詳細:後述、社寺)。

狭い範囲にこれだけ多くの寺院が密集している地域は珍しいとされます。

鳴海城跡と円竜寺のある丘陵では古い瓦片が見つかり、鳴海廃寺が在ったとされていますが、

昭和59(1984)年に円竜寺の本堂の建て替えに伴って発掘調査が実施され、

複弁蓮花門軒丸瓦や均整唐草文軒平瓦などが出土したほか、古墳時代から江戸時代までの遺物が多く発掘されました。

松尾芭蕉

また、松尾芭蕉が幾度も訪れたことでも知られています。

貞享2(1685)年「野ざらし紀行」の旅の途中に訪れたのをはじめ、松尾芭蕉が生涯で4度鳴海を訪れています。

<石碑・供養塔>

その名残として千鳥塚、誓願寺の供養塔に芭蕉堂と芭蕉像ほか、成海神社境内游心亭、天神社に句碑があります。

<誓願寺:供養塔>

誓願寺の供養塔は芭蕉が没して最初に建てられた最古の供養塔として、

<石碑:千鳥塚>

写真:千鳥塚、名古屋市指定史跡。

 

この碑は、貞享4年(1687年)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、

満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連中の名、側面に興行の年月が刻んである。

これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってより。

昭和52年(1977年)名古屋市史跡に指定された。(写真・引用:株式会社エヴォルブド・インフォ)。

千鳥塚は芭蕉存命中唯一でしかも文字が芭蕉の直筆という大変貴重なものとして、名古屋市指定史跡となっています。

<地域の例祭>
この地域の祭礼として特徴的なのは10月の例大祭で、鳴海八幡宮と成海神社の神輿行列が町を回り、

それぞれ表方5輌、裏方4輌の山車もにぎやかなお囃子に乗って町を曳き廻されます。

表方と裏方に分かれて祭りを行いはじめたのは元禄年間1688~1704)ころといわれています。

それまでは、ひとつの祭りを楽しんでいたようです。近年は夜祭りで、鳴海にある山車9輌が庚申坂下の本町に、

提灯を灯した華麗な姿で勢揃いし、訪れた人々を魅了しています。

有松

・・・有松は、慶長13(1608)年尾張藩によって村として開かれ、絞り産業が盛んになってからは、商工集落として成長しました。

天明4(1784)年の大火で全村焼失という大きな被害が出たものの、藩からの援助などもあって復興をとげ、

建造物には瓦葺や塗籠造、卯建など防火のための工夫を加えたことで、より重厚な印象の町並みが現出しました。

昭和44(1969)年ごろから、関係住民にも参加を呼びかけた町並み保存運動が見られるようになり、

保存の機運が盛り上がったことで、昭和59(1984)年、名古屋市で最初の町並み保存地区に指定されました。

町並み保存地区に指定

有松の歴史的な建物の一つ(中舛竹田家)

名古屋市によって、再生保存に必要な費用の一部にあてる『有松まちなみ保存ファンド募金』を地域住民とともに実施し、平成22(2010)年に再生保存を達成しました。

東海道沿い町並みの無電柱化整備

中町交差点から松野根橋は平成23(2011)年度、中町交差点から国道302号東間は平成24(2012)年度に工事が完了し、

平成25(2013)年3月23日に有松東海道無電柱化全線竣工開通式が開かれました。

江戸時代の姿を思わせる、広い空の下に広がる町並み見られるようになりました。

有松絞りまつり

現在も、住民によるさまざまな町並み保存活動が行われています。

そのひとつは、国の重要伝統的建造物保存地区への選定を目指すものです。この地域の特徴的な祭礼は、

6月の第1土・日曜日に有松商工会や有松絞商工協同組合を中心に行われる有松絞りまつりがあります。

絞り商人がそれぞれに店を出し呼び声を響かせるほか、絞り染め技術の実演や体験、

町並みツアーなどさまざまなイベントで町がにぎわいます。

また、有松には名古屋市文化財に指定される布袋車・唐子車・神功皇后車の3輌の山車があり、

いずれも精巧なからくり人形が乗せられています。

例年10月の第1日曜日に行われる天満社の祭礼では、この3輌の山車が町内をひきまわされ、幻想的な姿を見せます。

【メモ 絞り】
絞りの資料などを展示した有松・鳴海絞会館には、多くの観光客が訪れています。

有松・鳴海絞りは、昭和49(1974)年に全国の各種伝統工芸品産業の保持振興のための、

伝統的工芸品の振興に関する法律」が施行され、昭和50(1975)年通商産業大臣より、愛知県下第1号として指定を受けました。

長年にわたる技術改良により、国内はもとより広く海外にもその名を知らるようになりました。

有松・鳴海絞りは、慶長年間(1596~1615)以来370年の歴史をもつ伝統産業です。

産地として形成されたのは、豊後絞の技法の伝播を契機に、東海道を往来する旅人を相手に成長をとげました。

尾張藩の保護のもとに元禄年間(1688~1704)には、全盛時代を迎えています。

400年以上続く、有松の魅力

江戸時代の面影を残す古い街並みや、有松絞で全国的にも知られる緑区・有松。

今から400年以上前の1608年(慶長13)年に鳴海宿と池鯉鮒(知立)宿の間宿として有松宿がつくられたのがその起こり。

そこで売られていた木綿絞りの浴衣や手ぬぐいなどが旅人の間でもてはやされ、有松の繁栄につながりました。

<統一した活動で、効率的・持続的に!>

有松では6月の「有松絞りまつり」のほか、夏の「有松ゆかたまつり」や、

秋の「晩秋の有松を楽しむ会」などのイベントを開催しています。

しかしこれまでは、各イベントの運営はそれぞれの実行委員会によるものでした。

でも、それでは効率的な集客や持続可能な仕掛けづくりが難しかったことから、

さまざまな立場の関係者が集まって協議し、委員会の発足が決まりました。

また同委員会では、名古屋市主催の「SDGsまちづくり推進事業」にも参加。

染色技術を生かした「染め直しフェス」など新たなアクションプランも実行予定です。

「町並みや文化の保存に加え、それを”人の活動”や”場所の活用”につなげることも大切」と話すのは事務局長の武馬淑恵さん。

同委員会が探求する、歴史や文化を継承する”これからの有松のありかた”に、期待が高まっています。(Risa2月号特集記事、2023年2月号)。

徳重

・・・ここはもともと緑や水が多くある地域でした。農業用のため池の名残で現在も要池や神沢池などがあり、

特に大池は緑区を代表する川である扇川が流れ始める池としてよく知られ、自然豊かな地域で知られています。

また、扇川周辺には、奈良・平安時代の窯跡が多くあるほか、市内では少なくなったさまざまな動植物が生息しています(引用:名古屋市資料)。

徳重だいこん(特集)

・・・近年、「徳重だいこん」に関する新聞記事が多く見受けられます。ここに集約しましたので、参考になれば幸いです。

緑区フリモ誌で取り上げ

写真:徳重だいこん、緑区フリモ(令和5年1月号表紙)。

 

冬が旬のダイコン。徳重地区では「徳重だいこん」が昭和50年代まで盛んに生産されていました。

「最盛期には、大高から貨車で積み込み、東北や北海道まで発送していました」と話すのは、当時を知る寺島喜三郎さん。

農家がそれぞれ種を採り、毎年のように栽培を続けていましたが、区画整理など都市化の波で農家が減少。

生産者の高齢化もあって、この地域の農業は徐々に衰退していきました。同時に徳重だいこんは、いつしか幻の野菜に。

地元農家・JAの取り組み

伝統野菜とは、日本各地で古くから栽培され、地元の農家が採取を繰り返す中で、風土・気候に合うように変化して根づいた地域の品種。

一度は途絶えたと思われた「徳重だいこん」、緑区で農業に携わる有志の手で復活。

現在、「愛知県の伝統野菜」認定を目指して、地元農家・JAが栽培に取り組んでいます。

写真:(右)徳重だいこん、(2022/12/16日、中日新聞)。

 

「あいちの伝統野菜」に認定(その1)

愛知県内で昔ながらに栽培されてきた伝統的な野菜を選定する県の「あいちの伝統野菜」に、

清洲市の「土田かぼちゃ」と名古屋市緑区の「徳重だいこん」の二品目が追加された。

追加選定は2007年以来16年ぶりで、あいちの伝統野菜は計37品目になった。

二品目はいずれも一時期栽培が途絶えたが、近年に種がはっけんされて復活。地域おこしにつながっていることから追加された。

写真:(上)土田かぼちゃ、(下)徳重だいこん。
<土田かぼちゃ>

清洲市の土田地区が産地の土田かぼちゃは、大型で肉が厚く、水分が多いためねっとりとした触感。

同市観光協会や地元菓子店が、土田かぼちゃを使ったアイスクリームやプリンなどを販売している。

<徳重だいこん>

名古屋市緑区の徳重地区が産地の徳重だいこんは、太くて短く、先端が丸い形状。

火を通しても崩れにくく調理しやすい。昨年に保存会が発足し、地元飲食店がメニューを考案した。

12月下旬から1月上旬ごろ、JAみどり徳重支店の土用朝市などで販売している。

件は今後、ホームページ(愛知県園芸農産課)で紹介するほか、23年度に伝統野菜の振興に取り組む。(2023/3/24日、中日新聞)。

徳重だいこんの特徴

<果肉がしっかりして折れにくく、太く短く先端が丸い>

先に向かって細くなる一般的な大根と違い、輪切りにして均等な形になるのがポイント。

<火を通しても煮崩れしにい>

煮物・漬物・大根おろし・切り干しなど、さまざまな料理に使えます。

鳴海絞商工会の取り組み

「徳重だいこん」の煮汁で有松・鳴海絞のハンカチを作る参加者(鳴海区大高緑地)。

写真:鳴海区大高緑地(花梅まつり)、中日新聞記事。

緑区で昭和初期に盛んに生産され、現在は復活に向けて取り組まれている「徳重だいこん」を使い、

有松・鳴海絞のハンカチを作る体験会が19日、同区の大高緑地で開かれている「花梅まつり」の会場でありました。

有松絞商工会が、県が定める「あいちの伝統野菜」の認定を目指す「徳重だいこん」と連携し、企画。

組合が徳重大根で草木染を摺るのは初めてという。

参加者は組合員やJA緑みどりの女性部員からの手ほどきを受けながら、

シルク製のハンカチを輪ゴムで絞り、徳重だいこんの葉の煮汁に10分ほど漬けて染め上げた。

布を三角に折って染める「雪花絞り」の手ぬぐいを作る体験もありました。

小学5年の塚本綾音さんは「大根できれいな色が出るのはびっくりした。

かわいく出来上がったので、これから使ってみたい」と喜んでいました。(2023/2/26日、中日新聞)。

「あいちの伝統野菜」に認定(その2)

「あいちの伝統野菜」選定にで喜ぶ徳重だいこん保存会の関係者(下記写真)。

写真:名古屋市緑区のJAみどりの徳重支店で、(中日新聞)。

愛知県内で昔ながらに栽培されてきた伝統的な野菜を選定する県の「あいちの伝統野菜」に、

名古屋市緑区の「徳重だいこん」が追加され、有志の農家らによる保育会などが5月19日、同区のJAみどり徳重支店で祝賀会を開いた。

会員ら約40人が、一度は姿を消した大根の復活劇を振り返り、苦労をねぎらいあった。

写真:徳重だいこん、(中日新聞)。

徳重大根は長さ薬40~50センチの太く短い形で、荷崩れしにくいのが特徴。

JAみどりによると、昭和20~50年ごろに徳重地区で盛んに生産されたが、

一帯の都市化や生産者の高齢化などを理由に栽培されなくなっていった。

2016年、ある農家の農業用冷蔵庫で保管されていた徳重大根の種が見つかり、復活に向けた動きがスタート。

JAみどりや市農業センターが試験栽培し、種を農家に配布して普及を進めた。

これらの大根が徳重だいこんであると確定させるため、栽培当時の史料や文献にあたったり、

かっての生産者にインタビュウーしたりして裏付け作業を進めてきた。

地元農家らは昨年5月に「徳重だいこん保存会」を発足。「大根餃子」「豚肉・大根のねぎ味噌」などのレシピも考案した。

12月に収穫期を迎えることと、両手に大根を持つ姿をかけ合わせて12月11日を

「徳重大根の日」に制定し、市民へのアピールも図る。

こうした努力が実を結び、今年3月に県があいちの伝統野菜に選んだ。

祝賀会では、関係者がくす玉を割って祝った。会員の農家だけでなく地域住民らにも種を配り、

生産者、収穫量ともに増やしてゆく方針を確認。今後はさらに特産化を進め、朝市や産地直売などでも販売していくという。

寺島嘉三郎会長(82)は「先祖が作っていた徳重だいこんが復活し、伝統野菜に選定されて心からうれしい。

今後は一本でも多く作りたい」と意欲を見せる。JAみどりの小島教正組合長は「伝統野菜を維持するためには、

さまざまな活動や連携が必要。これからも普及のために協力していただきたい」と呼びかけた(2023/5/23、中日新聞)。

扇川の歴史

地図:大池(扇側の源流=緑区藤塚)。
写真:鳴海の物流の拠点であった扇川の土場(どば=船着場)。

写真は扇川の浅間橋付近に設けられていた土場(どば)の明治末期ごろの風景を川下から撮っています。

扇川の役割

現在では水路の役をしているに過ぎなくなりましたが、昭和30年頃までは土場に小舟が泊めてあり、潮の干満とともに上がり下りしていました。

また、子供たちの水泳の練習の場であり、御精霊様の行事も扇川あっての行事でした。

江戸時代、藩への年貢の輸送を馬によるか船によるかは村毎に定まっていました。

鳴海村、平手新田や大高村は船回し、相原村や有松村は馬付けとなっていました。

鳴海村より名古屋の堀川沿い広井官倉まで、船路三里半の海路を使いこの土壌から年貢を輸送していました。

そのため扇川の北の作町に郷蔵が設けられたのは、船で輸送する便を考えてのことでした。

また、土場は物流以外に近海への人の渡航にも利用され桑名・伊勢などの船便が設けられました。

乗客の待合所が作町に作られ、扇川の干潮の場合は出航できず潮の満ちるのを持って出航していました。(2017年5月第93号)。

社寺

・・・鳴海には日本武尊にゆかりの神社があるほか、古くは室町時代に創建されたとされる寺院などが、

現在も鳴海12ヶ寺として残っています。狭い範囲にこれだけ多くの寺院が密集している地域は珍しいとされます。

神社

熊野社

投稿者の地の氏神さま:緑区熊の前にある熊野社(地図)。

社号標や地図表記は徳重熊野社となっているから、そう呼ばれていることが多いのだろう。神社本庁への登録社名は熊野社だ。

相原郷の古くからの氏神で、相原に諏訪社が勧請された後に神ノ倉のこの場所に移したという話があるのだけどはっきりしない。

諏訪社側はそういっているのに、熊野社側からそいった話が出てこないため、どちらを信用すればいいのか分からない。

鳴海八幡宮と成海神社

前述のごとく、地域の祭礼として特徴的なのは10月の例大祭です。

神輿行列が町を回り、それぞれ表方5輌、裏方4輌の山車もにぎやかなお囃子に乗って町を曳き廻されます。

表方と裏方に分かれて祭りを行いはじめたのは元禄年間1688~1704)ころといわれています。

それまでは、ひとつの祭りを楽しんでいたようです。近年は夜祭りで、鳴海にある山車9輌が庚申坂下の本町に、

提灯を灯した華麗な姿で勢揃いし、訪れた人々を魅了しています。

鳴海12ヶ寺

東海道ができて、鳴海が宿場町になり、鎌倉街道わきにあったお寺も東海道沿いに越してきて、鳴海にはお寺が多い。
<初詣りの鳴海7寺巡り>
如意寺、誓願寺(観音堂)、圓道寺(庚申堂)、圓龍寺、萬福寺、浄泉寺、瑞泉寺である。
<11寺巡り>
金剛寺、瑞泉寺、浄泉寺、萬福寺、圓龍寺、誓願寺、圓道寺、如意寺、東福院、長翁寺、光明寺である。
<鳴海12ヶ寺>
宿場から離れた野並駅の近くの桂林寺を入れて鳴海12ヶ寺古刹巡りというのもある。
<鳴海寺寺詣りの唄というわらべ歌>
東海道の鳴海宿 寺銭用意しなされや 西よりはじまる寺参り、

風呂敷かぶりの光明寺
花井小路の長翁寺
ちょっと入った東福院
お腹に仏の如意寺
出たり入ったり誓願寺
(引用:きまぐれびと)。

 

名古屋市緑区散策(歴史編)のまとめ

・・・歴史的にインパクトのある桶狭間の戦い、織田氏が今川氏に勝利し、天下布武を掲げ日本統一の足掛かりとなった出来事が浮かびます。

その後、鳴海・有松は江戸時代の宿場と伝統産業の絞りでさかえました。

現在もその伝統産業を継承し、さらに地域一丸となって将来を見据えております。

また、俳句の聖人である松尾芭蕉は鳴海の地に生涯4回も訪れました。

一方大高の歴史は、はるかに古く『古事記』に東国征伐を終えた日本武尊が、宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妻にし、

仲むつまじく暮らしたという「氷上の里」の記述があります。

さらに、宮簀媛命が日本武尊から預かった草薙の剣を、大切に祀ろうと社を造りました。そのが後に熱田神宮に移されました。

数々の貴重な史跡が身近な場所にあったことは、驚きでした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。